ボトル底2mmのシャンプー

ボトルのシャンプーが切れてしまってだいぶ経つ。もちろんとっくに新しいボトルを開けて使っているが、底に2mmだけシャンプーの残ったボトルが、新しいボトルと並んでずっとある。

薄めたり逆さにしてゆっくり落ちるのを待ったりと、使い切る方法は知っているのに、どうもシャンプーボトルに手が伸びない。首のスクリューキャップをひねって、ポンプ部分を外して垂れてくるシャンプーをすくったり薄めたり……そんな手順を想像だけして、億劫さに気が遠くなりそのまま風呂を出る。

私のお風呂グッズは銭湯方式なので、毎回毎回、入浴のたびに空のボトルと新しいボトルを浴槽のふちに並べては風呂上がりに部屋に持ち帰る、といった二重作業をしている。

部屋で、「今日も空のまま持ち帰ってしまった」、翌日には「今日は使い切ってボトルを捨てたい」と、思うだけは毎日思っている。

そもそも、浴室の湯気がやる気を溶かすのがいけない。または、お風呂上がりに待ち受ける、面倒くさい作業たちが心をくじくのがいけない。本当はきちんと生活したいのだと、やはり思うだけは毎日思っている。

今日も私は生きているので、食事をして歯を磨き、皿を洗い入浴したら髪を乾かし、ついでに保湿や洗濯など、人生に付随するあらゆることに気力を傾けなくてはいけない。動作のたびに削って削って、ボトル底2mmのシャンプーに充てる気力が残る日はいつになるのか。

ボトルごと捨ててしまう日の方が、早く訪れるかもしれない。(頑張りたい)

美しきあれこれ

美しさを知ることは、美しくないものを切り捨てる判断基準を得ることだ。そんな判断基準を身につけてしまうと、これまで見ていた世界の「美しくないもの」が目につくようになってしまう。

美しさを知ってしまったときの、私の態度は高慢ちきだ。無自覚に、美しくないものは無価値だと断じては、ふと我に返ってドン引きする。

ポジティブな情緒について、閾値はあまり高くない方が日々の幸せは多い。それでいて、ゲインを上げに上げた先でようやっと見つかる、ささやかな心の動き、ささやかな風景の移ろいが持つパンチ力も無下にはできないのだ。

磨こうチューニング力、そして人間性。美しさを知るのことの両輪として。

汗をダラダラかきながらそんなことを思ったのは、嘉数仁然さんの宗元寺〜壺屋歩きツアーの前後のことなのだけれど、ブログに書くには出力が足りないようです。

しゃべくりを聴きながら四分の一日歩き通して、楽しく過ごすために人様の知恵をお借りできるのはとてもありがたいなあと思いました。

Outlookの乱

ドメインメールのアカウントをOutlookに移設したところ、不通・通知の不具合が断続的に発生している。困るのはいつも調子が悪いわけではない、ということ。

完全に悪いわけではないが、対応を漏らす何点かに致命的なダメージを受けたりするわけで、怖くてメインのメールアプリとしては使えない状態が続いている。

アプリの意味、そして通知許可の意味、または情弱ゆえに私が何か重大な設定ミスをしている可能性。さまざまな因果をその身に宿して、今日もOutlookは淡々と稼働を続けるのであった。知らんけども。

ところで近頃のうるし達を見てほしい。

陽光に夏を感じる

すくすくと芽吹いてはいるが、葉が枯れたり黄ばんだり、「健康に育っています」と言い切るには不安定な状況が続いている。

ここのところ、熱中症必至の日差しが続いており、北から来た植物には過酷な環境を強いていると思う。

もともと南国にはなかった植物を育てているわけで、私の行動は実のところ育成ではなく淘汰選別補助なのだろうな。

(ここにはなかった植物を育てる=外来種による生態系へのアレコレが樹木についても発生してしまうのでは、という懸念がいま沸いたのでメモ)

あと新芽の根元ではいつもアリが何かを嗅ぎ回っており、いったい何のエキスが分泌されているのだろうと不思議に思う。アリにとって、うるしは毒ではないのだろうか。

余談だが私はうるしに触れると、必ず一週間後にひどいかぶれを発症する。かゆくて苦しい時は掻かずに熱めのお湯をかぶると楽になれる、という自己流ハックを身につけたここ一年、謎ハックが身につく程度にはうるしにかぶれた一年だった。

ちなみに初めてかぶれたのは去年の月蝕の日で、当時は発疹の原因に全く心当たりがなく、いっそスピリチュアルな何かの仕業かと、超高速で欠けたり満ちたりしている月を見ながら慄いていた記憶がある。

でかい天板を塗りに塗った翌週のことだった。

当時は痒みが心折れそうに辛かったけれど、生き物は何やかや環境に適応できるものである。

痒みには慣れたが、かぶれると肌にうっすら跡が残るため、残りの人生ではなるべく痒みハックを発揮する機会が少ないとよい。

テクノロジー、この調子でたのむで

友人にLINEを送ったら、表題のようなフレーズで返信が返ってきた。

chatGPTを使ったら作業が快適になった、という話をしている最中に受け取った一言に、ふと、テクノロジーが私たちの友人になったような気分を味わった。

先日足を運んだ展示会で、コンテンツ生成AIについて熱心に語る人たちを目の当たりにしたので、私もいいかげん時代に乗らないと、と関連サービスを使ったり学んだりしている。

さっそくメッセージの文章作成にchatGPTを使い始めたところ、メッセージの返信にかかる時間が激減した。時間的なコストがガツっと減ったが、一番減ったのは心理的な負担だと思う。

少し言いづらいこと、こう書くと印象が悪くなるのではと不安に感じるフレーズ、複雑な手順の説明を「わかりやすく」……時短を妨げていたのは、「このメッセージを相手に送ることで、自分がどう評価されるか」だったように思う。

chatGPTの書くメールは、ところどころ不自然だ。だが、意味は十二分に伝わる。伝わるしまあ、いっか、という軽い気持ちで送信ボタンを押せるようになったのは、「まあゆうてAIが書いてるしね」という、自分が発する文章と自分との間に距離を置くことができ、メールを通して自分が評価されるのだというプレッシャーから解放されたからなのかもしれない。

相手に対して心を砕く、自分を良くしたい・よく見せたいと思う、失敗のリカバリーに頭を悩ませる。どれも大切だが、全てを担うには心というものは幾分ナイーブで、感性と事務処理には、ある程度距離をとってあげたほうがいい。

ああそういえば、生身の感性が剥き出しになりすぎて、出すのも受けるのもしんどいからSNSを全てやめたのだった、と思う。さすがに社会生活はやめられないので、物理的にだけでなく心理的にも、楽になるための力を借りられる人工知能というものは、メンタルヘルスにも有効なツールなんだろう。

人間は考えたくない生き物だという。考えさせずに気持ちの良い購買体験を提供するのが、マーケティングにおける成功だと聞いた。思考の一部を人工知能に委ねて、頭脳や精神への負荷を減らすことで成長を止める筋肉や神経回路があるのかもしれないが、進化し続けることだけが正というわけでもなし。

ひとまず近頃の私は、人工知能のおかげで健やかに過ごせている。

テクノロジー、この調子でたのむで。

学生時代の同期から何年かぶりに連絡があり、「同窓会の件で、転居したなら住所変更の手続きをしてくれないか」との談。申し訳なく思うが、同窓会、これは死ぬまでずっと私の居所を把握し続けるつもりなのだろうか。思い返せば、名簿の職業欄には「逝去」という表記もあったので、やはり死ぬまで俺たちは一緒なのかもしれない。

もう一生会わない同窓生ばかりだと思うし、人生の何かしらが交差する見込みもないが、どういう訳か名簿だけはこの先も一蓮托生で、我々は毎年数千円の会費を死ぬまで納め続け、出来の悪い同期のために住所確認の催促をしなければいけない面倒見のいい同期が存在したりする。申し訳ない限りだ。

「同じ釜の飯」という言葉にはうすら寒い心地を覚えている。うっかり同窓などになってしまったせいでどこかがつながり続ける関係を全部断ち切ってしまいたい気持ちと、それで割を食う人のいい誰かがいるのは申し訳ないという気持ちとがせめぎ合って、そういったことを少しでも考えるのが面倒で関連する手続きをまるっと思考の外側に置きがち、それでも我々はかつて同じ釜の飯を確かに食べていたのだった、だから「住所変更した?」という連絡を、心優しくもくれたりするのだ。

同期に謝り新住所を伝え、手間をかけてしまったとひと通り落ち込む。前回の連絡も「住所変更した?」だった気がするので頭が上がらない。

「そのうち人事課から連絡が行くと思う」とのこと、連絡を受ける心当たりは全くないが、何かやらかしていて怒られるような悪い予感しかしない。予感にも根拠はない。刷り込まれた反射のような後ろめたさがずっとあり、それがどうも悪さをしている。

暑いくらいだと思う。毛布に包まる

羽毛ぶとんを出した。ポカポカして暑いくらいで、びっくりしている。羽毛ぶとんは暖かい。

年が明けてまた戦々恐々とする暮らしが始まったが、第6波が引いていく気配が全くない。

このまま高め安定で2022年が進んでいくんだろうか。う〜ん。

今年は行きたい場所もやりたいこともたくさんあるので、少しずつ外に出て行くつもりだったんだけれども。

不満や不安を環境に訴えても仕方がないので、暖かい布団で静かに寝る。

寝転がりながら、半袖短パンで心なしか汗をかいている。羽根の力って、すごい。

日曜日みたいな生活と、休日の朝の労働

日曜朝の駅は静かだ。道玄坂だって日曜日の朝は静かなので、いはんや田舎の駅をや、である。

毎日これくらい静かに過ごしたいと思う。人にペースを乱されない、人にスペースを奪われない、心なしか空気もきれい。

裏時間が好きなのだと思う。世界が働いているときに私はゆったり過ごしたいし、眠っている世界のがらんとした駅でスキップをしたい。

夜は早めに電気を消して朝焼けのなか自転車を走らせる(新聞配達みたいだ)、今年はなるべくそういったリズムで生活できるよう、スケジュールを整えたい。

飛行機のチケットを取ったら第6波が到来してしまったので、自分の見通しの甘さに歯ぎしりしている。

落ち着いたように見えていても、感染るようなことをしたら、感染るんだなあ。

「朝のふきげん」を直す

朝の私は、人に優しくできない。

朝、何かにつけて他人にイラッとしてしまうのは、寝起きの体調のせいかしらと思う。

大抵の場合、昼ごろには心が2回りほど広くなり、朝の行いを反省している。

反省にはカロリーを使う。自己肯定感が下がり、心がすり減る。

起床してからの経過時間なのか、人に会った回数か、不思議と昼には心が広くなっている。そして、「ヤダ、私の態度、ひどすぎ……?」と思うのだ。

人に会う時は、いつも昼のテンションで過ごしたい。

朝の不機嫌タイムを周りにぶつけてしまわないよう、今年は朝早く起きることを習慣にしてみようかと思う。新年だし。

手始めに、まずは早寝早起き。

仕事が要る。そしてご飯を食べねばならない。

その土地に住むためには、その土地の仕事が要る。リモートワークもいいけど、生身の人間と雑談できる環境を作るには、その土地で仕事をするのが手っ取り早いと思う。コスパの問題が解決できるなら、店員さんと顧客の関係でもいい。

他人と接触する必要があるシチュエーションを作る。接触は、日常的に反復でき継続性があること。先述のとおりお店でもいいんだけど、仕事がいちばん効率的だと思う。続けるとご飯が食べられるし。

観光地の悪いところは、「観光地価格」と「地元価格」が分かれてしまっていることだ。サービスの利用は、教育に似ている。それも無意識の、刷り込みに近い教育だ。

私たちはサービスを利用し、お金を払う代わりに価値の提供を受ける。観光地価格の商品のユーザーでない地元の人は、観光地価格のサービスを知らない。知らないものは提供できない。

土地固有の観光資源を潤沢に使ったサービス。提供側にも享受側にも回れない地元の人は、いったいどこに行けばいいんだろう? サービスに触れる環境を整えることも、教育だと思う。

みたいなことを考えて、しかし私にも知らないことがたくさんあるぞと思う。仕事が要る、作り方は知らないけど。大人なので、セルフ教育が必要なのだと思う。

時間が溶ける、バーチャルな友達とつながる

友人に「今度そっちに行くよ」と言うと、「何年ぶりかな?」と聞かれる。

数えてみると、丸2年ぶりだった。

よく遊んでいる気がしていたけど、あの思い出やあの会話は、すべてネット上の出来事だった。びっくりした。

飛行機に乗ればすぐにだって会える。アプリを開けば、いつでも話せる。近い気がしていたけど、2人してとても遠い所にいた。

それでも2年もの間、まめにコミュニケーションが続いたことに驚いている。「私たちバーチャルな関係だったのね」と言い、二人して笑った。

バーチャルでも友達でいられる。リアルで顔を合わせたとして、別に手を繋ぐことも一緒に寝ることもなく、彼女とは、画面越しのと全然変わらない会話をするのだと思う。

友人に会えるのは嬉しい。会うことの意味って何なんだろう。物理的な距離が近づいたとして、交わす情報に劇的な変化はない気がしている。

今日は久しぶりにペンタブレットを起動する。気付いたらこんな時間になっており、1日が短すぎて、焦る。

期待値も下げていきたいと思う、ゆっくり寝る

塩せっけんなるものをいただく。塩、石けんにまで混ぜてきたか! と思う。

無添加で、石けん素地と塩を絶妙なバランスで配合することにより完璧な泡を作り出せるようになったらしい、ぴかぴかの石けん。

ボディーソープが切れたので、さっそくお風呂場に持っていく。使い心地は何というか、硬かった。

泡立てネットで一生懸命泡立てるけどどうしても泡がへちょっとして、もっちりモコモコになってくれない。

何も入れないと、石けんの泡ってこうなるんだな、ということを学び、同時に普段のもっちり泡には我々すごく甘やかされているんだと思った。

化学薬品を使っていません! と言われると心強い気がするけど、もっちり泡だってすごく気持ちいい。

無添加とちょうどいい添加物、どちらが肌に正しいのかを、実のところよく分かっていない。自分のことをちゃんと知るのは、案外難しいことだと思う。

ゆるい泡を少しなめてみたら、そう言われてみればそうかな…くらいのほんのり塩味がした、気がした。

今日はヤマトの配達を楽しみに待った1日で、日中ソワソワしていたら時間がえらくゆっくり過ぎた。

配達時間を指定すると、どうしたって「時間に間に合ってないじゃない! 配達が遅い! ムキー!」みたいな心理に陥ってしまうことがある。

未熟者め、もっと心にゆとりを持てよと自分でも思うけど、「いま向かってます!」と言われたら期待してしまうのが小さな人間というもので、期待しないでいることはとても難しい。

本当は、宅配便の配達予定なんかは見ないようにするのが正しくて、荷物は忘れたころにポンと届いて予想外なハッピーを浴びるくらいが、心身穏やかでいられるコツなのかもしれないと思う。

人が何してるかを知らなければ、期待しなくて済むもんな。でもそれはそれで不健全な気もする。「君のこと考えたくないから、君については知りたくない」? うーん。

そんなことを考えながらヤマトさんから荷物を受け取り、いい感じの布を譲ってもらったので針仕事のお願いをして、今日はゆっくり眠れそうな土曜日の夜。

いい週末です。