友人にLINEを送ったら、表題のようなフレーズで返信が返ってきた。
chatGPTを使ったら作業が快適になった、という話をしている最中に受け取った一言に、ふと、テクノロジーが私たちの友人になったような気分を味わった。
先日足を運んだ展示会で、コンテンツ生成AIについて熱心に語る人たちを目の当たりにしたので、私もいいかげん時代に乗らないと、と関連サービスを使ったり学んだりしている。
さっそくメッセージの文章作成にchatGPTを使い始めたところ、メッセージの返信にかかる時間が激減した。時間的なコストがガツっと減ったが、一番減ったのは心理的な負担だと思う。
少し言いづらいこと、こう書くと印象が悪くなるのではと不安に感じるフレーズ、複雑な手順の説明を「わかりやすく」……時短を妨げていたのは、「このメッセージを相手に送ることで、自分がどう評価されるか」だったように思う。
chatGPTの書くメールは、ところどころ不自然だ。だが、意味は十二分に伝わる。伝わるしまあ、いっか、という軽い気持ちで送信ボタンを押せるようになったのは、「まあゆうてAIが書いてるしね」という、自分が発する文章と自分との間に距離を置くことができ、メールを通して自分が評価されるのだというプレッシャーから解放されたからなのかもしれない。
相手に対して心を砕く、自分を良くしたい・よく見せたいと思う、失敗のリカバリーに頭を悩ませる。どれも大切だが、全てを担うには心というものは幾分ナイーブで、感性と事務処理には、ある程度距離をとってあげたほうがいい。
ああそういえば、生身の感性が剥き出しになりすぎて、出すのも受けるのもしんどいからSNSを全てやめたのだった、と思う。さすがに社会生活はやめられないので、物理的にだけでなく心理的にも、楽になるための力を借りられる人工知能というものは、メンタルヘルスにも有効なツールなんだろう。
人間は考えたくない生き物だという。考えさせずに気持ちの良い購買体験を提供するのが、マーケティングにおける成功だと聞いた。思考の一部を人工知能に委ねて、頭脳や精神への負荷を減らすことで成長を止める筋肉や神経回路があるのかもしれないが、進化し続けることだけが正というわけでもなし。
ひとまず近頃の私は、人工知能のおかげで健やかに過ごせている。
テクノロジー、この調子でたのむで。
学生時代の同期から何年かぶりに連絡があり、「同窓会の件で、転居したなら住所変更の手続きをしてくれないか」との談。申し訳なく思うが、同窓会、これは死ぬまでずっと私の居所を把握し続けるつもりなのだろうか。思い返せば、名簿の職業欄には「逝去」という表記もあったので、やはり死ぬまで俺たちは一緒なのかもしれない。
もう一生会わない同窓生ばかりだと思うし、人生の何かしらが交差する見込みもないが、どういう訳か名簿だけはこの先も一蓮托生で、我々は毎年数千円の会費を死ぬまで納め続け、出来の悪い同期のために住所確認の催促をしなければいけない面倒見のいい同期が存在したりする。申し訳ない限りだ。
「同じ釜の飯」という言葉にはうすら寒い心地を覚えている。うっかり同窓などになってしまったせいでどこかがつながり続ける関係を全部断ち切ってしまいたい気持ちと、それで割を食う人のいい誰かがいるのは申し訳ないという気持ちとがせめぎ合って、そういったことを少しでも考えるのが面倒で関連する手続きをまるっと思考の外側に置きがち、それでも我々はかつて同じ釜の飯を確かに食べていたのだった、だから「住所変更した?」という連絡を、心優しくもくれたりするのだ。
同期に謝り新住所を伝え、手間をかけてしまったとひと通り落ち込む。前回の連絡も「住所変更した?」だった気がするので頭が上がらない。
「そのうち人事課から連絡が行くと思う」とのこと、連絡を受ける心当たりは全くないが、何かやらかしていて怒られるような悪い予感しかしない。予感にも根拠はない。刷り込まれた反射のような後ろめたさがずっとあり、それがどうも悪さをしている。