赤子の頭を撫でるように

忘年会の席で、「歯磨きをしすぎて知覚過敏になった」という話を聞いた。

「ゴシゴシ磨くと良くないんだよ、歯は、赤子の頭を撫でる力で磨くんだ」と人生の先輩が言っていたので、なるほどなぁと思う。帰宅して歯ブラシを握るとき、ナイロンの毛の先にふわふわで頼りない骨格の赤ちゃんの頭を思い浮かべる。歯磨きという義務的な日常の動作において、はっとするほど趣のある表現だった。

今日は親切なお姉さんに、炭酸水にくし切りのレモンを絞って貰えて嬉しかった。車だからと炭酸水を頼んだら、「レモンを用意しましょうか?」と店員さんが尋ねてくれた。何かのサワー用のレモンがきつく冷えた炭酸水に種ごとダイブしていき、予想外の提案や思いがけない優しさが、こんなに心に染み入る年末。

うるしはいよいよ青い葉が全て落ち、春になったらちゃんと再び芽吹くのか、試練の冬が始まります。

軽やかなカメラと231210のうるし

先日、カメラを置いて旅に出たところ驚くほど快適だった。一キロちょっとの重量を肩に負い続けるのは、自覚していた以上にストレスだったようだ。荷物が軽くなると足取りも軽くなる。いい気分でiPhoneのカメラアプリを使い倒したけれど、「いい写真」をPCで見ると、画面の粗さに涙が出た。

重くてはいけないけど粗いのも切なすぎる、ということで、サブ機にキヤノンのKiss X10iを迎えることにする。

届いた日からほぼ毎日持ち歩いて、そういえばシャッターを切るのは楽しかったということを思い出す。構える前の「よっこいしょ」がなくなると、軽々しくカメラを取り出すことができる。浮かれポンチな軽やかさだ。

レンズは標準レンズ、画質はキヤノンだなあという感じがして、ピントも綺麗に合うし速い。大きいモニターで見ても、データを印刷しても粗さに悲しくなることはない。それ以上の良し悪しは実のところよく分からないが、お値段以上に楽しく撮影できている。

初めて買った一眼レフカメラもKissシリーズで、確かX7iに40mmのレンズが付いていた。

ズームできないレンズがあることを購入後に知り、設定をいじらないと真っ暗だったり被写体がブレブレの写真になってしまうことも、購入後に知った。F値だのISOだのについては学生時代にさんざん習ったはずなのに、まったく教育を無駄遣いしている。

その後、写真好きが集まるコミュニティにご縁があり、「撮影は楽しいもの」と自分に刷り込むことができてよかったと、振り返って思う。

久しぶりにカメラが軽いし、贅沢にも一眼レフを二台持ちする大富豪になったので、定点動画と静止画撮影を併用する機会を増やしていきたい。

そういえば7月に、「アリが漆の新芽にたかっているが、アリは漆のかぶれ成分にやられることはないのか」といった日記を書いたのだけれど、漆にはどうやら薬効があるらしく、もしかするとアリは体にいいものをきちんと理解しているのかもしれない。

この頃の漆は、葉が落ちてしまって枯れ木の様相。間違った世話をしてしまったからか、冬だから冬芽という形態になっているのか、雪国の植物を南の島に連れてきてしまい、辛い冬を過ごさせていないかだけが不安である。

12月のとんでもない晴天

時間が育くむもの、風化していくもの

人混みを避け山奥を訪れると、ちょうど紅葉の時期でこちらも大混雑していた。蛇行する山道をひしめく乗用車に混ざり、レンタカーのハンドルを握る。狭所で行き違うために時々サイドミラーを畳みながら、歩行者や車が洗われる芋のようだなあと思った。

山を切り拓き敷かれた道の脇には、とんでもない巨木が多数聳えていた。この山が育つのに、一体どれだけの時間を要したのだろうと思う。時々目に入る蛍光色のリボンや、巨木の横にちょろりと生える頼りない若木を目にするたび、山の世話をしている人が描いているであろう、〇年後の山の姿に考えを巡らせるなどした。

木々の合間を車が走る。走るというにはトロトロしすぎた速度ではある。巨木と人間が並ぶと縮尺がおかしくて、両者は違う時間軸の生き物なのだと改めて感じる。

10月末、「燕三条工場の祭典」に行ってきた。新潟の燕市・三条市にまたがる、金属加工で栄えているエリアで開催される、町工場のオープンファクトリーが目玉のイベントだ。

金物の関連製品を製造している工場で、「昔はこの辺の大きい工場からの発注が多かったけれど、今はみんな海外に(発注が)行ってしまった」という話を聞いた。

一円でも安い生産コストを追求した結果、工場が海外に移った、技術が廃れた、若者は都会へ行き、後継者がいなくなった──という話は、現代にはありふれたエピソードなのだろうと思う。業態をより時代に沿ったものにしていくといった観点では、むしろ普遍的なエピソードだろうとも。

非合理は市場に淘汰され、合理的なものだけが残っていく。それは私たちの暮らし、消費者のニーズに合わせた、現代的で自然なことだ。いっそ健全なサイクルとも言える。

燕三条エリアでの取り組みは個人的にも楽しく拝見・体験しているが、今日の日記の主題ではないため、それについてはまたいつか書きたい。

合理を追い求めるからこそ売り上げが立つ反面、補助金を注ぎ込んでようやく守られる遺物や自然がある。史跡や寺社仏閣は文化・歴史などと呼ばれ、一見「合理的な市場」からは遠い存在のように思える。入山料の発生しない山もまた然り。

非合理を成り立たせるためには、並走する合理からの分け前によって、十分なリソースが確保される必要がある。

かつての幕府は年貢で荘厳な寺社仏閣を建立し、行政は税金で文化遺産を補修して山を整備し、私たちは働いたお給料でおやつを買ったり自宅を建てたりする。(荘厳な寺社仏閣のおかげで、リーダーの求心力が高まったり観光産業が栄えたりすることがあると思うので、一概に非合理とは言えないかもしれない)

寿命に向かい無秩序に朽ちていくのを、食い止め少しでも長らえさせようとする働きかけ、または混沌を整える作業、あるいは純粋な幸福のための行動、そういったふるまいの全てには原資が必要だ。

お金であったりマンパワーであったり、私たちが持ちうる原資──リソースには必ず、上限がある。寝て起きて働き、ご飯を食べる。寝食がなくては働けないし、1日は24時間と決まっている。

昔、栄えた町並み。船団が停泊していた漁港や地場産業が盛んだった地域で、鉄骨が剥き出しになった建物や穴の空いたトタン屋根を目にするたび、「おお、経済との戦いの痕跡……」と思う。

町やお屋敷の規模が大きいほど、過日の生み出すノスタルジーはきつい。時代の流れとともに合理的でなくなった産業が淘汰されていく、自然で残酷な流れを突きつけられたとき、栄えた「かつて」に思いを馳せては切なさに胸を震わせる私がいる。一方Amazonでは、1円でも安い商品を買うわけだけれど。

朽ちていく非合理と、保護される非合理がある。保護できる非合理と、保護できない非合理がある、といえるかもしれない。

合理のもたらすリソースを欠いたとき、非合理は簡単に淘汰される。文化的にも豊かに暮らせるに越したことはないけれど、腹が減っては戦はできないのである。

いつでも合理が正しいわけではない、と信じたい。人間こそ非合理の塊のようなところがあるし、寄り道した先で一生忘れられない経験をすることだって、きっとある。

しかし、誰がどうやって非合理に対するコストを負い続けるかを考え実行に移していくのは、合理の仕事だ。

ゆるふわと心地よい妄想ばかりして過ごせたらいいのだけれど、理想に辿り着くには道筋が必要なのだなあと思う。

美しい山景色。自然だけでも、人の力だけでも生み出せない風景を眺めがら。