人混みを避け山奥を訪れると、ちょうど紅葉の時期でこちらも大混雑していた。蛇行する山道をひしめく乗用車に混ざり、レンタカーのハンドルを握る。狭所で行き違うために時々サイドミラーを畳みながら、歩行者や車が洗われる芋のようだなあと思った。
山を切り拓き敷かれた道の脇には、とんでもない巨木が多数聳えていた。この山が育つのに、一体どれだけの時間を要したのだろうと思う。時々目に入る蛍光色のリボンや、巨木の横にちょろりと生える頼りない若木を目にするたび、山の世話をしている人が描いているであろう、〇年後の山の姿に考えを巡らせるなどした。
木々の合間を車が走る。走るというにはトロトロしすぎた速度ではある。巨木と人間が並ぶと縮尺がおかしくて、両者は違う時間軸の生き物なのだと改めて感じる。
10月末、「燕三条工場の祭典」に行ってきた。新潟の燕市・三条市にまたがる、金属加工で栄えているエリアで開催される、町工場のオープンファクトリーが目玉のイベントだ。
金物の関連製品を製造している工場で、「昔はこの辺の大きい工場からの発注が多かったけれど、今はみんな海外に(発注が)行ってしまった」という話を聞いた。
一円でも安い生産コストを追求した結果、工場が海外に移った、技術が廃れた、若者は都会へ行き、後継者がいなくなった──という話は、現代にはありふれたエピソードなのだろうと思う。業態をより時代に沿ったものにしていくといった観点では、むしろ普遍的なエピソードだろうとも。
非合理は市場に淘汰され、合理的なものだけが残っていく。それは私たちの暮らし、消費者のニーズに合わせた、現代的で自然なことだ。いっそ健全なサイクルとも言える。
燕三条エリアでの取り組みは個人的にも楽しく拝見・体験しているが、今日の日記の主題ではないため、それについてはまたいつか書きたい。
合理を追い求めるからこそ売り上げが立つ反面、補助金を注ぎ込んでようやく守られる遺物や自然がある。史跡や寺社仏閣は文化・歴史などと呼ばれ、一見「合理的な市場」からは遠い存在のように思える。入山料の発生しない山もまた然り。
非合理を成り立たせるためには、並走する合理からの分け前によって、十分なリソースが確保される必要がある。
かつての幕府は年貢で荘厳な寺社仏閣を建立し、行政は税金で文化遺産を補修して山を整備し、私たちは働いたお給料でおやつを買ったり自宅を建てたりする。(荘厳な寺社仏閣のおかげで、リーダーの求心力が高まったり観光産業が栄えたりすることがあると思うので、一概に非合理とは言えないかもしれない)
寿命に向かい無秩序に朽ちていくのを、食い止め少しでも長らえさせようとする働きかけ、または混沌を整える作業、あるいは純粋な幸福のための行動、そういったふるまいの全てには原資が必要だ。
お金であったりマンパワーであったり、私たちが持ちうる原資──リソースには必ず、上限がある。寝て起きて働き、ご飯を食べる。寝食がなくては働けないし、1日は24時間と決まっている。
昔、栄えた町並み。船団が停泊していた漁港や地場産業が盛んだった地域で、鉄骨が剥き出しになった建物や穴の空いたトタン屋根を目にするたび、「おお、経済との戦いの痕跡……」と思う。
町やお屋敷の規模が大きいほど、過日の生み出すノスタルジーはきつい。時代の流れとともに合理的でなくなった産業が淘汰されていく、自然で残酷な流れを突きつけられたとき、栄えた「かつて」に思いを馳せては切なさに胸を震わせる私がいる。一方Amazonでは、1円でも安い商品を買うわけだけれど。
朽ちていく非合理と、保護される非合理がある。保護できる非合理と、保護できない非合理がある、といえるかもしれない。
合理のもたらすリソースを欠いたとき、非合理は簡単に淘汰される。文化的にも豊かに暮らせるに越したことはないけれど、腹が減っては戦はできないのである。
いつでも合理が正しいわけではない、と信じたい。人間こそ非合理の塊のようなところがあるし、寄り道した先で一生忘れられない経験をすることだって、きっとある。
しかし、誰がどうやって非合理に対するコストを負い続けるかを考え実行に移していくのは、合理の仕事だ。
ゆるふわと心地よい妄想ばかりして過ごせたらいいのだけれど、理想に辿り着くには道筋が必要なのだなあと思う。
美しい山景色。自然だけでも、人の力だけでも生み出せない風景を眺めがら。