人人心心の花

「博物館や美術館に行ったら、必ず音声ガイドを借りるんです」と、大学時代の教授が言った。4年間で学んだ内容のうち、最もその後の行動に影響を与えたことのひとつだと思う。

「人々心々の花」という、世阿弥の言葉がある。見る人の心にそれぞれの花がある、というニュアンスの言葉だ。感じ方は人それぞれ、同じものを見たとして、誰もが同じような感想を持つわけではない。

物事と向きあう時、例えばその「物」が、選び抜かれた逸品であればあるほど、私の世界は浅い。素晴らしい物に心を震わせる感性と、なぜそれが素晴らしいのかを理解するための知識は、両輪でなければつまらないと思う。

人は自分の目でしか世界を見ることができず、知らないことは想像すらできない。何にも知らないままでは、きれいな物を並べられても「きれいだね」で終わってしまう。しかしながら、花の美しさにも色々あるのだ。

世界をいかに豊かなものと捉えられるかは、世界と向き合う人の目にかかっている。博物館や美術館、逸品ばかりが並ぶ場所で、私の視界の浅さを補うのが、ガイドなのだと思う。

京都には、解説が必要な逸品が山ほどある。ガラス越しに見る作品の、額縁の外側に続く背景に思いをはせることができるのは、他人の知識を分けてもらったから、なのだよなあ。

卒業してから、教授とは疎遠になってしまったが、音声ガイドを手に取るたび思う。世界には知らないことがたくさんあり、知らない感動もたくさんある。知らない扉を開けるために、人の力はいくらでも借りたい。兼好法師も、わざわざ書き残すわけだ。

明日からは雨。雨なりの予定を立てて、オンライン英会話の残念な成績で泣きそうになり、切ないご飯を食べた一日の終わり。

LCCがお安かったので、古都

「ここに都市をつくろう」という意志をもって造られた街なのだ、という感じがする。京都の大路を歩いている。

まっすぐ伸びた道の向こうにけぶる山があり、太陽が西へ落ちていくのがよく見えた。東京の丸の内に似ていると思うが、そもそもこちらが元祖だろう。頭に浮かぶ感想はどれも小学生じみていて、勉強不足が恥ずかしい。

地図で見る京都は、碁盤の目のように、キチッと整えた道が巡らされた街だ。直線と直角からなる地図からは、潔癖に近い几帳面さ、計画を遂行する権力がもつ冷たさ、無機質さのようなものがにじみ出ている気がしていた。

歩いてみれば、碁盤の目には少しずつ個性や愛嬌に似たひずみが存在しており、やはり人の暮らす街なのだと安心した。

自転車がたくさん走っている。意外と安いスーパーがある。犬の散歩をしている子どもがいる。歴史的建造物とホテルに混ざって、地元の人たちの生活が存在していた。まるで非日常のような日常を、この人たちは暮らしているのだと思う。

日が暮れて、東の山から来た夜が、とっぷりと街を覆う。いろんな形をした軒先に明かりが点き、通りをいく人々をぼんやり照らした。買い物帰り、ランニング、デートの途中、日常の土曜夜を過ごす人々。

明日はどこへ行こうかと考える。確固たる目的があるわけではないけど、たくさんの景色が見れたらいい。知らない街を歩くのは、やっぱり楽しい。