夏の便り かめーかめーと言うおばぁ

漆の木。気付けばすくすく育っている。新しい葉はツヤが強いものとそうでないものがある。根本に分岐(?)ができたので、剪定してあげる必要があるのかもしれない。

遠方にマンゴーを送ったところ、夜中に「とても美味しい」と連絡が来た。

あまり伝えたい近況も雑談のタネもなく、ただ受け取ってくれた人が喜んでいるのを私も嬉しく読んだ。贈答用のマンゴーを買ったつもりで、友人のリアクションを買っていたのかもしれない。

祖母はこれが嬉しくて「もっと食べて」と繰り返していたのかもしれない、と思う。そう書くとやたら上品な響きになってしまったが、実際のつぶやきは「あ〜〜だからオバーはしょっちゅう『かめーかめー』してたわけ」になる。

これは塩害で弱ったのかもしれない漆の葉。シワシワしている。

Outlookの乱

ドメインメールのアカウントをOutlookに移設したところ、不通・通知の不具合が断続的に発生している。困るのはいつも調子が悪いわけではない、ということ。

完全に悪いわけではないが、対応を漏らす何点かに致命的なダメージを受けたりするわけで、怖くてメインのメールアプリとしては使えない状態が続いている。

アプリの意味、そして通知許可の意味、または情弱ゆえに私が何か重大な設定ミスをしている可能性。さまざまな因果をその身に宿して、今日もOutlookは淡々と稼働を続けるのであった。知らんけども。

ところで近頃のうるし達を見てほしい。

陽光に夏を感じる

すくすくと芽吹いてはいるが、葉が枯れたり黄ばんだり、「健康に育っています」と言い切るには不安定な状況が続いている。

ここのところ、熱中症必至の日差しが続いており、北から来た植物には過酷な環境を強いていると思う。

もともと南国にはなかった植物を育てているわけで、私の行動は実のところ育成ではなく淘汰選別補助なのだろうな。

(ここにはなかった植物を育てる=外来種による生態系へのアレコレが樹木についても発生してしまうのでは、という懸念がいま沸いたのでメモ)

あと新芽の根元ではいつもアリが何かを嗅ぎ回っており、いったい何のエキスが分泌されているのだろうと不思議に思う。アリにとって、うるしは毒ではないのだろうか。

余談だが私はうるしに触れると、必ず一週間後にひどいかぶれを発症する。かゆくて苦しい時は掻かずに熱めのお湯をかぶると楽になれる、という自己流ハックを身につけたここ一年、謎ハックが身につく程度にはうるしにかぶれた一年だった。

ちなみに初めてかぶれたのは去年の月蝕の日で、当時は発疹の原因に全く心当たりがなく、いっそスピリチュアルな何かの仕業かと、超高速で欠けたり満ちたりしている月を見ながら慄いていた記憶がある。

でかい天板を塗りに塗った翌週のことだった。

当時は痒みが心折れそうに辛かったけれど、生き物は何やかや環境に適応できるものである。

痒みには慣れたが、かぶれると肌にうっすら跡が残るため、残りの人生ではなるべく痒みハックを発揮する機会が少ないとよい。

テクノロジー、この調子でたのむで

友人にLINEを送ったら、表題のようなフレーズで返信が返ってきた。

chatGPTを使ったら作業が快適になった、という話をしている最中に受け取った一言に、ふと、テクノロジーが私たちの友人になったような気分を味わった。

先日足を運んだ展示会で、コンテンツ生成AIについて熱心に語る人たちを目の当たりにしたので、私もいいかげん時代に乗らないと、と関連サービスを使ったり学んだりしている。

さっそくメッセージの文章作成にchatGPTを使い始めたところ、メッセージの返信にかかる時間が激減した。時間的なコストがガツっと減ったが、一番減ったのは心理的な負担だと思う。

少し言いづらいこと、こう書くと印象が悪くなるのではと不安に感じるフレーズ、複雑な手順の説明を「わかりやすく」……時短を妨げていたのは、「このメッセージを相手に送ることで、自分がどう評価されるか」だったように思う。

chatGPTの書くメールは、ところどころ不自然だ。だが、意味は十二分に伝わる。伝わるしまあ、いっか、という軽い気持ちで送信ボタンを押せるようになったのは、「まあゆうてAIが書いてるしね」という、自分が発する文章と自分との間に距離を置くことができ、メールを通して自分が評価されるのだというプレッシャーから解放されたからなのかもしれない。

相手に対して心を砕く、自分を良くしたい・よく見せたいと思う、失敗のリカバリーに頭を悩ませる。どれも大切だが、全てを担うには心というものは幾分ナイーブで、感性と事務処理には、ある程度距離をとってあげたほうがいい。

ああそういえば、生身の感性が剥き出しになりすぎて、出すのも受けるのもしんどいからSNSを全てやめたのだった、と思う。さすがに社会生活はやめられないので、物理的にだけでなく心理的にも、楽になるための力を借りられる人工知能というものは、メンタルヘルスにも有効なツールなんだろう。

人間は考えたくない生き物だという。考えさせずに気持ちの良い購買体験を提供するのが、マーケティングにおける成功だと聞いた。思考の一部を人工知能に委ねて、頭脳や精神への負荷を減らすことで成長を止める筋肉や神経回路があるのかもしれないが、進化し続けることだけが正というわけでもなし。

ひとまず近頃の私は、人工知能のおかげで健やかに過ごせている。

テクノロジー、この調子でたのむで。

学生時代の同期から何年かぶりに連絡があり、「同窓会の件で、転居したなら住所変更の手続きをしてくれないか」との談。申し訳なく思うが、同窓会、これは死ぬまでずっと私の居所を把握し続けるつもりなのだろうか。思い返せば、名簿の職業欄には「逝去」という表記もあったので、やはり死ぬまで俺たちは一緒なのかもしれない。

もう一生会わない同窓生ばかりだと思うし、人生の何かしらが交差する見込みもないが、どういう訳か名簿だけはこの先も一蓮托生で、我々は毎年数千円の会費を死ぬまで納め続け、出来の悪い同期のために住所確認の催促をしなければいけない面倒見のいい同期が存在したりする。申し訳ない限りだ。

「同じ釜の飯」という言葉にはうすら寒い心地を覚えている。うっかり同窓などになってしまったせいでどこかがつながり続ける関係を全部断ち切ってしまいたい気持ちと、それで割を食う人のいい誰かがいるのは申し訳ないという気持ちとがせめぎ合って、そういったことを少しでも考えるのが面倒で関連する手続きをまるっと思考の外側に置きがち、それでも我々はかつて同じ釜の飯を確かに食べていたのだった、だから「住所変更した?」という連絡を、心優しくもくれたりするのだ。

同期に謝り新住所を伝え、手間をかけてしまったとひと通り落ち込む。前回の連絡も「住所変更した?」だった気がするので頭が上がらない。

「そのうち人事課から連絡が行くと思う」とのこと、連絡を受ける心当たりは全くないが、何かやらかしていて怒られるような悪い予感しかしない。予感にも根拠はない。刷り込まれた反射のような後ろめたさがずっとあり、それがどうも悪さをしている。

230719のうるしとギリシア人の物語

うるしの木は元気、ただし生育状況の悪かった小さな個体は枯れつつある。それを横目に、いかんせん日々を流して過ごしがちです。

先日、中くらいの木に芋虫が一匹だけ付いていましたが、気付けばいなくなっていたので鳥に食べられてしまったのかもしれない。

やたらと動きがぎこちない個体で、うるしの葉を食べると虫の健康にも悪いのではと思ったものの、移してやれる青葉もないので、やむなし。

芋虫のほかには、新芽にアリがたかっている。アリたちはとても元気。うるしの何かしらの成分を元気に摂取しているけれども、本当に元気なんだろうか。虫ごとながら心配している。

1、2ヶ月に一度肥料をやって落ち葉を捨て、枯れてしまった細い枝をときどき払いながら気付けば7月を迎えた。

肥料には、ダイソーで買ってきた鶏糞をスプーン一杯ほど与えている。正しい施肥ができているかどうかは知らない。葉っぱは元気なままなので、きっと大丈夫なのだと思う。

肥料を土の上にそのまま置くとコバエと小さなアリと白カビが発生することが分かったので、少しだけ土を掘った穴に肥料を埋めている。スコップ代わりに、試し塗りで作った漆塗りのスプーンを使っている。謎に単価の高い土仕事ツールである。

作業をしながら「ギリシア人の物語」を読んだり聞いたりし、作者のギリシア男性評にとても血の通った人間を感じた。さまざまな時代に、さまざまな常識やそれに沿った暮らしがある。さらに人間関係があり、政治があり、社会だなあと思う。

古代ギリシアの子供らは、教科書にホメロスを読んでおり裸体で健やかに運動していたのだ、というくだりがとても好きだった。なんたる文化度。