百均に行った。靴の中敷きと、結ばなくていい靴紐なるものを買いに。靴紐は見つからず、代わりに百円の塗り椀を見つける。有名な産地の名前がついた塗り椀だった。
百円で漆器が作れるわけもなく、合成樹脂と合成塗料を原材料にした塗り椀だったのだけれど、自ら「塗り」と名乗っているなら、それは塗り椀なのだろう。食洗機可、電子レンジ可、現代生活に適した器だ。平積みにされているということは、お客様のニーズもそれなりに掴んでいる。
一つ手にとり、「おまえは塗り椀なのかい?」と尋ねてみる。塗料がなんであれ、塗られているならやはり塗り椀なのだろう。合成塗料を漆と言い張るのには、だいぶ違和感がないではないが。
塗料としての漆は何千年も昔から存在し、たまたま現代に至った技術を、一部の人が「伝統工芸」などと呼び保護しようとしている。別に伝統は至高ではなく、それが素晴らしいものだという価値観は、何らかの演出や教育によって植え付けられたものであるのだと思う。
俯瞰で見ると、百均の塗り椀は合理的な工業製品だ。多くの食卓にコスパの良い彩りをもたらし、伝統的な製造業と比較して、企業は短期間で売り上げを上げる。多くの人が効率的に豊かになれる、まるで素晴らしく理想的に。
伝統は至高ではないし、非効率なことは私も嫌いだ。それでもなお覚える違和感。平積みにされたうつわコーナーには、文化と資本主義との対立や教養云々についてではなく、もっと生理的な違和感があった。知っている言葉の解釈が変わってしまうことへの、変化に抗う、種としての生存本能のようなものだったかもしれない。
のみで生木の皮を剥ぎ、手に豆をつくった一日だった。木は伐られたあとも生き続けるという、人間に都合のよい理屈を聞く。長い時間をかけて育まれた幹は恐ろしく堅牢で、製造業には機械の力が必要であるという、心底腹落ちする学び。