プライベート、読書

電子書籍は好きだが読みすぎると目も指も痛くなる、オーディオブックは、目や手に優しいが読書体験として快適さに欠けている。

折衷してSiriに読み上げを頼んでばかりで、ここのところiPhoneが過熱されたままでいる。

熱されたiPhoneや、スクロールのしすぎで腱鞘炎のようになった右手は快適ではない。それでもオーディオブックにはまれないのは、耳を傾けるたび無遠慮にパーソナルスペースを荒らされるような、読書時の不快感が拭えないせいだ。

よくよく振り返ってみると、私にとっての読書は、とても私的な行動だった。文章から受け取った情報を咀嚼し、感情の揺れを味わったり、実用的なノウハウを実生活に落とし込むための妄想をする、一人用の行動。

オーディオブックを聴くとき、私的な空間に紛れ込んだ雑音は、とてつもなく不快だった。せっかく作品を読み込もうとしているのに、横槍を入れてくる他者の声色、音量、息継ぎ。

ナレーターの演技が入るたび、苛立ちとともに「それは私の感情ではない」と思う。物語の解釈に完全な正答はなく、詰まるところ好みの問題だ。単にオーディオブックの演出は私の解釈とは異なる、コンテンツとしてnot for meなだけなのだろう。

音声が嫌いなわけではない。合成音声による、平べったい読み上げは好きだ。漢字の読みはほぼ間違っているけども。

映像作品なら、始めから監督なり作者の感性・解釈が存在することが前提なので、演出を許容できるのだと思う。

けれど読書だけは、他者の視点を許容しづらい。オーディオブックをドラマCDやラジオドラマと同じ位置付けにできるのなら、気持ちの整理が付きそうだが、整理をつける必要性は今のところ差し迫ったものではないし。

読書が私のプライベートである限り、他者の解釈が混ざったオーディオブックを「本」として楽しむことは難しい。

Siriを使い続けてもiPhoneが熱くならなければ、そしてWebサイトの「コンテンツのみ」を延々読み上げてくれるアクションが存在するなら、万事解決で幸せになるのにな、と思う。

ものを捨てない

ものを捨てるタイミングについて考える。機能が失われたとき、外観が損なわれたとき、品質が悪くなったとき、理想状態から何かが欠けたときに、ものは捨てられるのだと思う。

欠けた部位を補填する方法があれば、理屈としてはものを捨てる必要はないはずだけれど、私たちは新しいものを手に入れるため古いものを手放す(または、目に入れないようにする)。

別に持ち続けることが正義だとは思わない。が、持ち続けることで気分が上がるなら、それは素晴らしいエコシステムに違いない。変化に敏感な私たちが、「継続」に対して興奮を覚えるのはいったいどんな場面だろう。

それはそうと、博多のお土産に明太子をもらい人生が豊かになった。必ず死んでいくから産まれるために卵が存在するわけで、それをひとパック何千円かで買えてしまう、なんて罪深い現代かと思う。

新しく手に入れたものを地肉にしたり手放したり、生き物なので全てを保持し続けることはできない。そして強烈な旨みをもつ明太子を噛み締めながら、プチプチと日記など書く。

液タブを買う、そしてQOLが上がる

液タブを買ったら解像度が爆上がりして、色々なモチベーションが上がった気がする。買い物の効用、その真骨頂はハードすなわち機能面ではなくソフト面、私の感情にあらわれる。やる気に効く、その効用プライスレスである。

先日読んだ小説で「デート先に歴史博物館を選んだ恋人」が女心を知らない朴念仁扱いされていたのだけれど、デートで歴史博物館、いいじゃん……と思ったところで、なるほどだから私の作るものはマイナーなのだ、という天啓に似た気付きを得た。

近所の私立美術館の年間来場者数は数万人、県内の水族館の年間来場者数は200万人超、みんなデートで博物館や美術館には行かない。アトラクションがあるところに人は集まるのだ、と思う。

みんなデートで博物館や美術館には行かない。

嫌われる勇気と嫌われないための事前説明

見積もりはシビアに、というのが最近の信条である。

サービスでやっておきますね、というのは簡単なのだけれど、心遣いのつもりだったものが「〜してあげたのに」という恨みに似た感情に変化してしまうと、精神衛生に多大な悪影響を及ぼす……みたいな事態に陥ることが多々ある。有限なリソースのうち、私にとって最も大切なのは気力なので、気力の源を傷つけないよう、これはフェアなやり取りだったと自分を納得できるようにしておきたい。

平たく言うと、仕様変更には追加のお見積もりを。
譲歩には対価を、みたいなケチくさい話だ。

フェアなやりとりには、十分な事前説明が欠かせない。「聞いていない」は納得感を著しく損なう。評価は絶対値ではなく期待値から相対的にはじき出されるもので、「聞いていない」には「事前にご説明差し上げたとおり」を返せないと、積み上げてきたものが簡単に爆破されてしまう。

言う必要があることは言わなくてはいけないが、どんどん長くなっていく事前説明に、この頃はうんざりしている。しかし、書類や長文のメールだけでは解決できない問題はそこらじゅうに山積したまま。説明はコストだ、そしてコミュニケーションはパワーだ。

水場に誘った馬が水を飲まなかったからといって、その責を私が負う必要はないが、馬が死んでしまうと不利益を被るのは私なので、水を飲んでもらう努力は力一杯必要なのであった。

合意の形成こそがお仕事の肝、何をするにも胆力が必要な世の中である。嫌われたくはない。