20230320のうるし

しとしと雨なので水やりはお休みの日、昨日より張りのある葉。土に白カビが生えてしまったので、また表面を除去する。

別件で丸太を運ぶ日々を送っているところ、この細い苗木も20年後にはどっしりとした幹になっているのかも、と思うとしみじみする。時間の力を借りてしか成し遂げられないこと、未来でしか答え合わせできない想像。こつこつ行こう。

その違和感の正体は

百均に行った。靴の中敷きと、結ばなくていい靴紐なるものを買いに。靴紐は見つからず、代わりに百円の塗り椀を見つける。有名な産地の名前がついた塗り椀だった。

百円で漆器が作れるわけもなく、合成樹脂と合成塗料を原材料にした塗り椀だったのだけれど、自ら「塗り」と名乗っているなら、それは塗り椀なのだろう。食洗機可、電子レンジ可、現代生活に適した器だ。平積みにされているということは、お客様のニーズもそれなりに掴んでいる。

一つ手にとり、「おまえは塗り椀なのかい?」と尋ねてみる。塗料がなんであれ、塗られているならやはり塗り椀なのだろう。合成塗料を漆と言い張るのには、だいぶ違和感がないではないが。

塗料としての漆は何千年も昔から存在し、たまたま現代に至った技術を、一部の人が「伝統工芸」などと呼び保護しようとしている。別に伝統は至高ではなく、それが素晴らしいものだという価値観は、何らかの演出や教育によって植え付けられたものであるのだと思う。

俯瞰で見ると、百均の塗り椀は合理的な工業製品だ。多くの食卓にコスパの良い彩りをもたらし、伝統的な製造業と比較して、企業は短期間で売り上げを上げる。多くの人が効率的に豊かになれる、まるで素晴らしく理想的に。

伝統は至高ではないし、非効率なことは私も嫌いだ。それでもなお覚える違和感。平積みにされたうつわコーナーには、文化と資本主義との対立や教養云々についてではなく、もっと生理的な違和感があった。知っている言葉の解釈が変わってしまうことへの、変化に抗う、種としての生存本能のようなものだったかもしれない。

のみで生木の皮を剥ぎ、手に豆をつくった一日だった。木は伐られたあとも生き続けるという、人間に都合のよい理屈を聞く。長い時間をかけて育まれた幹は恐ろしく堅牢で、製造業には機械の力が必要であるという、心底腹落ちする学び。

20230319のうるし

【画像2枚目カビ注意】晴天。
カラッと晴れてカビの心配もなく〜みたいな投稿をしたのは昨日だった気がする。心配事から解き放たれたのは気のせいだったようで、鉢に白カビが増殖していた。

直射日光に土を晒し、回復を待つ。ソワソワのあまり鉢全体に消毒用エタノールを噴霧したくなるが、そういうことではないのだと思う。葉っぱは、今日もあまり元気がない。

それは果たして、「悪」だろうか?

近ごろは、うるしbotと化した日記だった。ずっと文章を書くことにためらいがあったので、しょうもないことを書き連ねる、リハビリのような時間を過ごしていた。botはbotなりに役割があってよかった。

botをしながら、同じ問いが頭の中を回っていた。まだ使えるものを殺してしまうのは、果たして悪いことだろうか? 殺す、というと物騒である。実のところ、手直しして使いたい器があるという、ただそれだけなのだけど。

手元に、割れた平皿がある。割れていないが何年も仕舞い込まれていたコップもある。これらを漆で継いでしまいたい、と思っている。透明なグラスのつるっとした肌に、金色の線を走らせると綺麗なのではないだろうか。一度割って綺麗にお直しできれば、死蔵されていたグラスも活躍の場を取り戻せるというもの。でも、アップサイクルを銘打って飾りつけるために、新品同様のグラスを割ってしまうのは、許されることだろうか。

わざわざ「わざと割った」などと言わず、ただ可愛くしたいからそうしました、と心の中だけで唱えれば、きっと誰にも咎められはしない。でも、グラスを割ろうとしたときに引っかかる、罪悪感はいったいどこから来るんだろう。

例えば、長すぎるズボンの裾を詰めるように、残ったカレーで翌日のカレーうどんを楽しむように、思い出の着物をリメイクするように、確かにまだ使えるものではあるけれど、使われなかったコップを割ってしまうのは、悪いことだろうか。

理性や願望は、可愛いものを使いたいなら割れば? と囁く。情緒は、割るなんてコップがかわいそうだと言う。ものづくりをする友人に聞くと、他人の仕上げた解釈に自分の解釈を付け加える、それは戦争だ、という会話になった。名も知らない、工業的なコップを生み出した誰かに私は戦争を仕掛けようとしていたらしい。

ガラス、二酸化ケイ素のかたまりであるコップを手に取り考える。自然には割れる気配のない、仕舞われ誰にも使われてこなかった君を、私は割ろうとしている。ただの化合物に「かわいそう」も何もないと思う反面、ガラスの神様のような、またはトイ・ストーリーに出てくるおもちゃたちのような意志が存在したとき、確かにコップは「壊されるかわいそうな存在」になるのだと思う。しかし工業製品に心を寄せていくと、現代生活はままならない。だからと言って無感動に割り切れるほど、ハードボイルドにもなりきれないが。

キーボードを叩くわずかな振動で、机に飾っていた花から一枚、花びらが落ちた。生きていた花を計画的に刈り取り、花瓶に移しては死んでいくまでの過程を毎日眺める。これもまたグロテスクな行動だと思うのだけれど、花はきれいだ。きれいな花を求めて、人々は数千億円規模の市場をつくる。売り買いを経て死んでいく花を見て癒されたり心を満たしたりする、これは果たして、悪いことだろうか。

20230318のうるし

晴れ、シワと葉先の黒変。土表面が乾燥していたので水やりをする。鉢の受け皿は昨日より水浸しのままなかなか乾かず、土の保水量と受け皿の水量にはあまり相関性がないのかもしれないと思う。

天気がいいので土の白カビに対する心配から解き放たれ、大変いい土曜日だった。

20230317のうるし

曇り、しわしわの葉っぱ。土表面にまた白カビが生えていたので、水と肥料をやりすぎたに違いないと思う。先生がいないので加減が分からない。

1月26日に苗が届き、もうすぐこのうるし達を育てて丸二ヶ月経つらしい。右端の小さな個体は、まだ「芽が膨らんできたといえば膨らんできた」くらいの成長だけれど、左二本は葉っぱがフサフサである。成長は遅くても困らないので、丈夫に立派に根付いていくといいと思う。

来年には、植え替えの土地にしっかり植えてあげたい。近ごろ土地ばかり探しているものの、買うお金はなかったので金策も要検討。

20230316のうるし

今日も雨。出がけに写真を撮影したら、三枚目が写真へたくそ選手権になった。右端の鉢はまだまだ芽吹かず、来月あたりに急成長を見せてくれるんじゃないかな、と思っている。ゆっくり育っておくれ。

心なしか今日の葉っぱは元気な気がするが、気がするだけかもしれない。特にお世話の方法は変えていない。

20230315のうるし

恵みの雨。雨降りだが、恵みを通り過ぎてそこらじゅうベトついている気がする。そして右の鉢の土表面にカビが生えた。土には十分、水分が含まれているということらしい。カビが育つのに必要な養分も。しかし葉っぱは芽吹いたそばから黒く変色していく。どうしたらいいんや…

ひとまず白カビが生えた土表面は取り除いて、水やりは控えてみることにする。防カビそれは除湿。早く晴れないかなと思ったが、低い湿度に不安を感じていたくせに、雨が降ったそばから今度は日光を待ち望む、地上の民の思考はほんとうに調子がいいと思う。

20230314のうるし

水をたくさん撒こう、と決意したのは昨日の話ですが、夜が明けてみると鉢の受け皿まで水がタプタプになっており、本日水やりはお休み。

葉っぱはくしゃくしゃのまま。しかしローマは1日にして成らないように、昨日水をダバッと撒いたとて、今日急に鉢植えが元気になるわけではないのであった。人間と一緒である。

水が溜まった受け皿を見て、鉢植えに過剰な水やりを続ける様子は、傷付きすでに息絶えた仲間に回復魔法をかけ続ける悲しきモンスターみがあるなと思うなどした。死んではいないけども。

20230313のうるし

ついに葉っぱがくしゃくしゃになってくる。水不足にしては鉢全体が水浸しだし、しかし生き物の身体というのは今日撒いて明日元気!みたいな単純な作りはしていないので、再生には時間がかかるのかもしれない。

しばらく撒く水の量を増やし続けながら、並行して園芸知識をつけよう。育んでいきたい。

考えてみると、芽が葉になると蒸散という現象が激しく起きるわけで、そりゃあ葉っぱも乾きますわ…という感じがする。