10分の1世界

機内誌で、浅田次郎さんのエッセイを読んだ。コロナ禍とは、コールハーンを一足39ドルで買える世界のことだったのかと思う。

しかし、安い。デパートで普通に買うと、10倍以上の価格になるはず。流通過程で乗っかるマージンのえげつなさについて考え、でも上乗せ分でキラキラした接客をしてくれるのだから、それはそれで喜ばしいのか。

飛行機を降りると、呼吸が軽くて驚いた。夏だ。

雨でないのなら、と傘を置いて出かけたら、そういえば私の傘は雨晴兼用だった。空模様は晴天。まっすぐ降りかかる夏の日差しは、肌に痛い。

「つらお…」などと呟いたものの、つらおはビフォーコロナ時代の言葉な気がした。

傘を持ちたくないのは身軽さが恋しいから、でも傘を持つのは保険のためで、保険とは辛い時期をラクにしてくれるものだったな、と思い出す。

半袖の形に、腕は赤く日焼けをした。久しぶりの日焼けな気がする。

赤くなった腕で吊り革を掴む。

電車のサイネージに登場するのは、初めて見る顔ばかり。少しずつ旅を思い出しながら、いま何が流行りなのかを全く知らない、浦島太郎みたいな移動をしている。

私はお前をつれてゆくよ

国境が開き始めている。

飛行機に乗る罪悪感が一気に弱くなった。

長距離を移動することに、罪人のようにビクビクしなくても良いのだ。

予定の合間を縫っては、空の旅を少しずつ再開している。航空券は、ハイシーズンに向けて値上がりの傾向。盛夏は混むし高いけど、6月の飛行機はちょうどいい。

コロナ禍で、ものを手放しすぎたきらいがある。少なさは、身軽さだ。どこへ出かけるにも小さな肩掛けカバン1つで、手というものは塞いではいけないのだと思った。

ここへきて飛行機である。

さすがに3泊4日を、小さなカバンひとつでは過ごせない。しかし、手を塞ぐ荷物は持ちたくない。安心用の折り畳み傘だって、手に握っていたくはないのだ。

愛用していたキャリーバッグを引っ張り出し、掃除をする。放置しすぎたために、持ち手の部分はなんと加水分解でベタベタしていた。その他、良好。思えばこの人といろんな所へ行った。

空っぽのカバンを、コロコロ転がしてみる。2輪のキャスターはスムーズに地面を走る。少しベタついた取っ手を握る、右手。

このカバンがとても優秀なことを、私は知っている。このカバンにたくさんの良いものを詰め込めることだって知っている。

しかし、少し、重い。

正確には、「今の気分には」重い。

悩みに悩んで、キャリーバッグに2泊3日分の荷物を詰めた。手ぶらで行っても、どうせ現地で服を買うのだ。飛行機に乗るたび、間に合わせの服を増やすのも違う気がする。

2泊3日のカバンはスカスカだ。服も、詰めるお土産も、そんなにない。

「ビフォー」と比べたら明らかに軽いけれど、スタスタ歩くにはまだ少し重い。

アフターとぼんやり混ざり始めたウィズの時代、旅もまだ調整中であるわけで、繰り返しによりもっと最適に近い答えが見つかるわけで、きっとそれなりの、落ち着く形の旅が生まれていくのだと思う。

使うものもスケジュールも、行く場所、会う人、全部少しずつ調整しつつ。調整が終わったとき、身軽な両手は何を持っているのでしょうね。

優秀なキャリーバッグ、移動の象徴であったもの。ひとまず今日、私はお前を連れてゆくよ。