磨いていく、そして繕う

あ! と思い花の写真をシールに出力したら、とても可愛くて幸せな気持ちになったの巻。

大きなものがなかなか進まないので、せめて小さなものを積み上げた週末でした。

かくかくしかじかでリサイクルショップに行く。引っ越し屋さんを母体にしたお店だからか、生活感あふれる家具家電・事務所を引き払って出てきました、という感じの事務用品が並ぶお店だった。

店内は静かすぎて落ち着かない。古いものの放つ変な臭いをかぎながら、目当てのものを探した。とても緊張した。図書館の棚に囲まれた通路を一人で歩いている時の感覚に似ている。

日焼けした領収書やら酸化して白っぽくなった金物やら、誰にも使われなくなったものが、時間を吸いこんで少しずつだめになっていく。おお時間が死んでいく、と思った。

たくさんのものが作られるということは、作られただけのものが処分されるということだ。

「処分」と大雑把にくくっているけど、こうやって、リサイクルショップの澱んだ空気のなか朽ちていくのも、ものの一生の終わり方なのだよなと思う。

ものの気持ちを考える。誰かにまた使われる日を夢見ながら、リサイクルショップの棚に鎮座し続けている長い長い時間。

切ないなあと思うが、ものにロマン主義を適用するのもどうかと思う。切なさは単なる受け手の感覚で、ものはものでしかない。

そもそも、「お店に行く」「品物がある」ということ自体が、ワンチャン買ってもらうために膨大な量の品物を作り、運び並べて誰かに届けば生きられる! みたいな経済活動のあらわれであり、私が知らなくとも見えておらずとも、運良く買われたり買われないまま朽ちていく品物が存在することには変わりがないのだろうな。

陳腐だけども便利さにはやはり別の側面があると思う。当たり前に、色んなものに一つではない理由や意図がある。なるべく立体的に、ものごとをとらえていきたいですね。

結局、必要なものは見つからず、Amazonで買おうか迷っていたら知人からまるっと譲り受けることになった。

嬉しいなと思いながら、本当は違うことを日記に書く予定だったんだけどな…と思いながら、日付が変わってしまうので、本日閉店。

酒が飲める、閾値は下げていきたいと思う

「酒が飲める」歌がある。すごく幸せそうな歌だよねと車を運転する人が言っており、助手席の私はまったくその通りだと思った。

これだけハッピーな気持ちで毎日を過ごせたら、幸せに違いない。でもハッピーさの源がお酒じゃなかったらもっといいのにね、という話をした。

「キーアイテムがお酒じゃなかったら、こんなにヒットする歌にはならなかったのでは?」と言われ、確かにと思う。

お酒は楽しいし、気持ちいいもんな。

理性のタガがぽろっと外れる感じ、いらない表層が剥がれて、繊細に感情が動くようになる、あの感じ。

敏感に気付ける状態を、「閾値が低い」と呼んでいる。少しの刺激で、スイッチをONにできる状態。

お酒がなくとも、変化や揺らぎには敏感になれたらいいと思う。

少しのしょっぱさに塩を理解でき、日差しの揺らぎに秋を気付くことのできる、そういった閾値を持っていられたらいいなと。

とんこつラーメンや九州しょうゆには魔性の味わいがあるけど、澄ませただし汁だって美味しい。陽気な酒の歌を口ずさみながら、合間合間にそういった閾値の話をした。

なんで急に閾値が出てきたのかと思ったら、人がポロポロ死んでいく話を、立て続けに読んでしまったからかもしれない。

命を懸けた情熱も良いものだけど、日々は平坦に続いていくので、できるだけその中に潤いを見つけていきたいものです。閾値は気持ち、下げめに。

つま先を丸める、冬が来るなあと思う

靴下を脱ぐ開放感がとても好きなのだけど、フローリングが少しずつ素足に厳しくなっている。

保温ポットを出し、無印良品のルームブーツをネットで調べた。そろそろ無印良品週間が始まってもいい頃だと思う。10月末だし、などと考えながら、もう10月が終わろうとしていることにびっくりした。

夏からちまちま作っていたものがじき完成するので、年内にはお店に並べたいと思う。季節をまたいでものを作る、とても贅沢な時間のかけ方をした。

しっかり作った分、しっかり売れてくれるといいのだけど。

ひと仕事終え、椅子に座ったまま靴下を脱ぐ。開放感の代わりにやってきたのは夜の冷気で、思わず裸のつま先を縮こめた。

夏が去り秋になり、冬が来る。残りの今年はあまり駆け抜けないで、足場を確かめながら歩くみたいに過ごせたらいいなと思う。

勢いで作った紙ものがとても可愛かったので、もうちょっと改良してから土曜日を迎えること。

床を掃く、冬の準備をはじめる

仕事場用にモップを買った。

ダイソンの強い掃除機が壊れたタイミングで、吹き出す風で机の上のものが飛ばされるのに困っていたんだった、と思い出したので、風を生まないモップを買ってみた。

エコである。

気づけば増えがちなマイクロファイバーの雑巾が、また一枚増えた。雑巾を装着しとりあえず水拭きをしたら、引くくらいほこりが取れたのでさすが文明の利器だわと思う。

激落ちくんのモップ。

モップ一つ選ぶのにも種類がありすぎて、レビューを徘徊しお値段と機能と品質のあいだをさ迷い、ダスキンのレンタルまで検討するなどの紆余曲折をへて迎えた一品。

クイックルや無印良品のワイパーは、嫌いじゃないけどシートが挟みにくい。それから毎日使い捨てのシートを消費するのも、なんだかエコではない。

「ダスキンのレンタルモップは優秀だ」と母が絶賛していたけれど、いつも裸足だしときどき床に寝転がったりするので、薬品モップを使うのには抵抗があった。

月々の事務手続きが増えるのも、シンプルではないなと思ったから、でもそんなに掃除がしやすいならいつか使ってみたい願望はあります、ダスキンのモップ。

こう、パチンと雑巾をはさみ床をなでるとほこりがよく取れる激落ちくんのモップ。床にぴたりと密着するので、「拭く」ではなく「なでる」感じがしっくりくる。

雑巾を洗うのが面倒くさいではある、でも素足で歩く床がサラサラ気持ちいいので、しばらく使い続けられそうです。よかった。

ピアノを弾く、頑張って鼻歌を歌う

作りたいBGMがあったので、キーボードを引っ張り出した。

しばらく格闘したらそれなりに曲っぽいものができ、「私は天才かもしれない」と録音したものの客観的に聞いたら天才ではないことが分かった。そりゃそうだよなと正気に戻った。

作りたいものは作りたいので、果敢にも人の手を借りることにする。こんなの作りたいんだよねって説明するための音源を作りながら、マイクに鼻歌を吹き込みながら、穴に潜りたい恥ずかしさで胸がいっぱいになった。

一人で楽しむ分にはいくらでも天才になれるのに、人目があるとき、自分の一生懸命さや必死さはどうしたって恥ずかしい。理性では「必死だっていいじゃない」と思うが、年月をかけ、自ら育ててしまった性格なのでどうしようもない。自分のことはいつだって恥ずかしい。

お風呂場の鼻歌が気持ちいいのと同じように、あんまり突き詰めず、主観だけで作ったものをふわっと楽しむだけにしておけば、気楽なのにと思う。たまに、こうやって人にも聞いてもらいたい欲求が生まれたときのジレンマが始末に負えない。

鼻歌を歌う。口ずさむたび自意識がチクチク刺激され、穴に潜りたい気持ちになる。天才ではないのでそう頑張らなくてもいいんだけど、必死だっていいんだけど、人に見せるのは恥ずかしいんだけど、でも一緒に楽しめたら嬉しいはずだから。

あれこれ考えながら鼻歌を歌う。我ながら思考回路が面倒くさい。しかし歌い続ければ自意識はどこかに消えることも、私はすでに学習しているのだった。少しだけ頑張って鼻歌を歌う。頑張ってくれよなと思う。

無い物ねだりをしている、やはり生活を整えたいと思う

半年ほど前は、時間が欲しいとずっと言っていた気がする。ずっと思っていた。

今、割と時間にゆとりができ、心にもゆとりができて、また別の欲しいものができた。少し困っている。どうしてこう、欲しいものってなくならないんでしょうね。

高タンパク低糖質の食事が健康にいい(頭も体もスッキリする)と聞き、さっそく試してみようと思った。鶏むね肉を低温調理してみる。家には優秀なヨーグルトメーカーがあるので、漬け置いて寝かせるだけの簡単クッキングである。

鶏むね肉、100グラム59円。
加熱すること約2時間、いつもは噛むたびギュッとなる鳥むね肉が、まるで魔法みたいにふっくらジューシーに仕上がる。

手間もお金も大してかかっていない、何という健康エコライフかしらと一瞬感動したが、見事に三日坊主で終わった。油(?)がしつこく胃にもたれて、あまり食べ続けたいと思える出来ではなかったのだ。コンビニのサラダチキンはあんなに爽やかでおいしいのに、うまくいかないもんです。

健康的な食生活を送りたい。

味付けでかき込んでしまうような、食べてすぐ眠くなる食事ではなく、食べると頭も体もスッキリして、もうちょっと歩いてみようかな、階段駆け上がってちゃおうかなみたいな気持ちになれる食生活を送ってみたい。Tarzanに載ってるような。

温かい味噌汁を食べ、付け合わせのお野菜をいただき、よく噛みよく消化し、つやつやのお肌で暮らしていく。

時間ができたので実行しない理由はないのだが、鶏むね肉も頑張って作った味噌汁も、たいして美味しくないのが大きな問題なんだよなあ。

健康的な食生活がしたい。ちゃんと計量するとかレシピを見るとか、もうちょっと自分には頑張ってほしいと思う。未来の私へ、いま私は健康的な食生活が欲しいです。

レタスを刻む、月夜のカーテンを閉める

暖かい日に寄り道をして帰ったせいか、選び方がまずかったせいか、買ってきたレタスの中身がえらく痛んでいた。

外側から葉っぱを1枚1枚はがしていき、食べられるところだけを選んで刻む。

いつだったか、友人が「見えている世界が全てではないこと」というようなコピーを書いていた。彼女にとっては、とても実感のこもった言葉であるように見えた。私はあまり理解ができなかったので、なるほど、別の世界がいくつもあるのかと言葉を丸呑みにした。それはまだ消化できずに、胃袋のなかにある。

だいぶ時間が経ったけれども、私には相変わらず目の前しか見えていない。今は、レタスが世界の全てだった。萎びくたびれて、まな板の上で切り分けられていくレタス。外側の葉っぱをめくったら中身は大惨事だなんて、まあ。

「一枚めくってみたら」も、めくってみる前には全てではない世界に含まれていたのかしらと思う。やっぱりよく分からない。捉え方の数だけ世界があるのは事実だ。新しい世界が見たいと切望しているわけではく、久しぶりに友人と会う約束をしたので、彼女の世界について考えてみただけなんだと思う。

生きのこったレタスを、トマトと卵とで酸味の効いたスープに仕上げていただく。

部屋の窓から見える家々の、屋根にくっつきそうなほど低いところに半月が浮かんでいた。夜ごと空気が透明になり、冬が来るなあと思う。

MOFTをはがす。「ありがとう」と伝える

PCの画像

新しいPCを買った。

下取りに出すために、古いPCのリストアをした。

5年近くかけて蓄えたデータは5分もしないうちに消えてなくなり、メモリの空きをしめす棒グラフが、一気に真っ白になった。デジタルデータってそういうとこあるよねって思う。

転職したての頃からずっと使っているPCだった。一緒に働いて、ぶじ暮らしていくだけの稼ぎを生んでくれたPC。せめて、アナログな精神でセンチメンタルを感じておく。

しかし、お別れのあとも生活はつづく。私にはやることがあるのだった。

そう、PCの下取り額を上げねばならない。デジタル部分はこれ以上触りようがなく、残すは見た目が9割なので、できるだけきれいにして然るべき場所に送付するのだ。

マイクロファイバーぞうきんで、箱体をふく。エアダスターをキーボードに吹き付け、すきまのほこりを綿棒でぬぐう。ひと拭きするたびにPCはきれいに他人のようになっていき、アナログはアナログでこういうとこあるよねって思う。

ノートPCの裏側には、体に優しい便利グッズが貼ってあった。名前を「MOFT」という。PC仕事で首を痛めた私に、友人が贈ってくれたものだ。

座りっぱなしで1日じゅう顔をやや下に向けて過ごす生活を続けていたら、首周りの筋肉がガチガチになってしまい、ある日とつぜん首が回らなくなった。うなずけず振り向けず、後方確認ができないので車にも乗れない。大変だった。

そんな時期、MOFTにだいぶ助けられた。振り返ると、なんと体を粗末にしていたのか!と思う。その後、意識を高くしてストレッチポールなどを揃えたのはまた別の話。

PCを下取りに出すには、MOFTを剥がなくてはいけなかった。

ネットでは「再利用できます」という記事をちらほら見かけたけれども、そっと剥がそうとしたら爪が折れたので、力技で引き剥がすことにした。

ラジオペンチで、ぐいっと。

これが文明の力よ。

PCを買い替えて、ついでに周辺機器も新しくして、だいぶものを買ったり譲ったり、捨てたりした。じゅうぶん活用できなくてごめんねと思うものも、たくさん使ったけど他の人にも大事にしてもらってな!ありがとうな!と思うものもあった。

サステナビリティという言葉があるけれど、例えば「10年使っていられたもの」ってそう多くない。一生着られるニットは毛玉がガチガチになって捨ててしまったし、格好いいハイヒールは、田舎で暮らすにはちょっとかかとが高すぎた。しまっていたらカビが生えてしまった。

憧れて買ったスーツケースはここ2年ほこりを被っており、掃除機は先月壊れ、机の上のPCを見ては「お前ともお別れか」と思う。

新陳代謝だなあと思う。物を買って、使っては捨てていく。

まいにち顔を洗うように眠るように、消耗し回復して、壊れたらまた直し生活はつづく。買うときは高揚するし、壊れたら泣くし捨てるときは心が少し痛む。

このくり返しが生きていくってことなんだろうけれども、できるだけ納得いく物を、丁寧に長く使っていってあげたいね。

大変お世話になりました、ありがとうMacBook。

PCの画像

MOFTはどうしようか。我が家にはもうノートPCがないし、しばらく旅にも出ないからノートPCを新調する予定もないし、とりあえず保留だなあ。

相談をする、君と暮らしていきたいと思う

長く使える物と暮らしたいと、ずっと思っている。

長持ちするものは必ずしも高級品じゃなく、小学校で家庭科の授業のために買った布用の裁ちばさみがまだ現役だったりするし、父が作った実家の棚は、ネジ穴を増やしつつもう25年くらい使われている。

長く使えるものって、極論をいえば「取り替えられるもの」なんだと思う。メンテナンスできる人が存在するもの。切れ味が落ちたら刃を研いで、棚板の高さが合わなくなったら位置を変えてあげる。

パーツを用意してアンティークの時計を修理するような、カメラや楽器のメンテナンスみたいな。不具合が起きても、全体のうち一部を替えてあげれば使えるようになりますよ、という。

ラーメンの秘伝のスープみたいだと思う。これがあるから替え玉をしても美味しい、もちろんスープだけでは成り立たなくて、替え玉と合わせることでラーメンになるんだけど。

取り替えの効かない単体なら、買う→使い終わるの前後に、納得感があるといいなと思う。

ページがいっぱいになれば新しいKOKUYOのノートを買うし、春がきたら新しいユニクロの服を買う。そういった前後に、何かしら、一方的な自然からの搾取ではありませんよという証明があるとすごく救われる。トレーサビリティというやつか。

メンテナンスできるもの、替えがきくもの、もっといえば誕生から終わりまで、ちゃんと面倒を見てあげられるもの。要するにたぶんMieleなんだけど、20年分のお買い物はちょっと重いな。

使い捨ての一方的な感じ、利便性と引き換えに、捨てて良いモノの価値をすごく低く見積もった感じがあまり好きではない。利便性の価値が私にとってはあまり高くないというだけなので、どこかで引き算ができないかと考える。

利便性を我慢できる範囲で削り、本来使い捨てられるはずだった物の使用回数をちょっとだけ増やす。う〜ん、なら初めからちゃんと使えるものを選べば良くないか? 一人で考えてもしっくり来る答えが見つからなかったので、職人さんに相談に行く。

職人さんはモノの価値を高めるポジションにいるので、相談した結果としてはより迷子になった。前述のとおり高価なものが全てではないし、Mieleでは重すぎるし、ちょうどいい塩梅って難しいんだなと思った。

大事にできるものを探す、そして君と暮らしていきたいと思う。ロマンチックだけど難しいことだ。