でっかいカバン

訪れた先で「あ、ここ来たことあるな」とふと気付くことがある。いつだったかその場所を訪れたとき、隣に誰かがいた気がするのだが、誰かのシルエットはぼんやりとしてよく思い出せない。考えて考えて、前後の予定を手繰り寄せたところで、ようやく誰かが誰だったかを思い出せることがある。

さっぱり思い出せないこともある。忘れ去られた誰かを思うとき、自分の薄情さにゲンナリする。

どこでいつ、何を、誰と。人物よりも一瞬の景色の方が強く記憶に残っている。誰かといても、自分のことだけで頭をいっぱいにしていたのか? いや、思い出せた分の思い出はちゃんと楽しかったので、違うか。

二週間ほど遠出をするにあたり、家族に60リットルくらいのキャリーバッグを借りた。今まで機内持ち込み用のカバンだけで移動していたため、40リットルからの大拡張である。2リットルのペットボトルが10本も増やせる容量。

スカスカだなあと思いながら、ゆとりあるカバンを引き摺って飛行場に向かった。スカスカだが、増やした容量の分、重量も増えていた。重かった。

旅先のホテルで荷解きをし、詰め込んでいた上着を身につけお土産を取り出したら、いよいよカバンの半分近くが空になった。こんなに身軽に旅をしたことが、かつてあっただろうかと思う。

実のところ、荷物の総量にはそこまで変化はないはずなのだ。だってすし詰めにしていた荷物を、大きなカバンに入れ替えただけなのだから。

ただただモノを減らしてミニマルにすることが身軽さだと思っていたけれど、ゆとりあるカバンに適量を適当に収納するのも身軽さの一種なのではないか、そんなことを思った。だってこんなに気持ちが軽い。でっかいカバンはいいなぁと、のびのび詰められた洋服などを見ながら。

百均の便せん

お礼状を書くのに便せんが切れてしまったので、文房具屋さんに行く。

無地のちょうど良い便せんを求めたが、売り場に並んでいるのはファンシーなクローバーや花柄の舞う便せんばかり。そうではないのだ。

そうではない気持ちを抱え、併設されている百均に足を運ぶと無難なものが売っていたけれど、帰宅後めくった便せんは、「これでもか」というほど薄かった。

かくなる上は、コピー用紙の方が無難で上品な便せんに見えるかもしれない。ちょうどよく、我が家には業務用のペーパーカッターがある。

などと考えながら、南国を離れる飛行機に乗った。

海を渡った先には大都会が待っているので、ちょうどよくお上品な便せんと出会いたい旅の始まり、都会にもいい便箋がなければ、今後のマイ便せんはコピー用紙になる。

コピー用紙、上質紙70kgを半分に切って使う。コスパは百均よりとても良さそう。

商品それは効用

週末にお酒を飲んだところ、顔面が脱皮を始めた。

顔が浮腫んで赤く腫れたと思ったら皮膚が硬くなり剥げていく、飲むたびにこれなので、お酒とはどこまでも相容れない身体だと思う。

218円払って缶ビールを買った。手に入れたのはない交ぜになった苛立ちと悲しさをフワフワに誤魔化すための時間と、翌週に引きずるお肌の不調だった。内臓の不調かもしれない。

喉元を過ぎれば熱さを忘れるが、過ぎゆくまでの間を耐えきれず、お酒の効用に頼りたい時がある。

お酒に逃げるのはちっとも良くない状態だけれど、おかげで今日も息ができます。

これは市場で買ったQOL爆上がりアイテム、自分で「ジャンボ」と名乗るだけあるジャンボしいたけ。

大分からよくお越しになった。

400円でしいたけを買う。今日買ったのは夕飯のおかずの材料と、高揚した気分だった。

99円のアボカドとボブおじさんの裏庭

陶芸家の口から「土がなくなる」と聞く機会が増えた。木材が高騰して困るという声を、建築のみならず工芸分野の人からも聞く。

資源の再生産スピードと消費の速さが釣り合っていないとき、資源は枯れる。当たり前のことだが、想像力の及ばないことが多々ある。

大規模農園の開発によって森林が急速に失われ、それにともなう災害──山崩れや河川の氾濫、からの地下水の枯渇など──が増えている。例えば南米のアボカド農園。

99円のアボカドを売るために山を拓いたところ、地盤がゆるみ山が崩れ、建物や人に被害が出ることがあるらしい。

野菜売り場のアボカドからは、資本主義の力強い脈動を感じる。土地代、肥料代や農薬代、耕作機械、間伐や間引きや収穫、運搬、卸、流通そして小売、さまざまなコストが乗った果実をワンコイン以下で買える、ものすごい仕組みの結晶だ。

遠い外国で作られたアボカドが、海を渡り、世界のどこかの台所で、料理されたり真っ黒に変色して捨てられたりする。

その裏側でボブおじさんちの山が崩れたりするわけなんだけれど、スーパーでアボカドを選ぶとき、地球のどこかの山について想いをはせることは、まずない。

原因と結果の距離が遠くなるほど、私たちは両者の関係について無頓着になれるわけで、アボカドだけでなく身の回りのありとあらゆるモノについて、暮らしと資源の間には大きな隔たりがある。

美しいパッケージに囲まれて、骨の髄まで「消費者」が染みついた──それが当たり前なのが気持ち悪い。

この商品を手に取ることで、私はどこかの山のふもとの、誰かの家を壊しているかもしれない。この商品を手に取ることで、誰かの暮らしを豊かにしているかもしれない。

いずれにせよ相手の顔は見えず、私が99円ぽっちの消費活動を行ったところで、結果に大した影響を及ぼすことはできない。消費の責任はロット数で割られ、重みがわからないようになっている。

やっぱり、気持ち悪い。無頓着であれば覚えることのない違和感ではあるのだが。

違和感に対して、どんな行動を取るのが正解かは分からないけれども、文明の民は今さら狩猟採集生活には戻りたくないのであった。

資源と消費の関係性と、その間に介入する私の行動について、概念上のボブおじさんに思いを馳せながら。