つま先を丸める、冬が来るなあと思う

靴下を脱ぐ開放感がとても好きなのだけど、フローリングが少しずつ素足に厳しくなっている。

保温ポットを出し、無印良品のルームブーツをネットで調べた。そろそろ無印良品週間が始まってもいい頃だと思う。10月末だし、などと考えながら、もう10月が終わろうとしていることにびっくりした。

夏からちまちま作っていたものがじき完成するので、年内にはお店に並べたいと思う。季節をまたいでものを作る、とても贅沢な時間のかけ方をした。

しっかり作った分、しっかり売れてくれるといいのだけど。

ひと仕事終え、椅子に座ったまま靴下を脱ぐ。開放感の代わりにやってきたのは夜の冷気で、思わず裸のつま先を縮こめた。

夏が去り秋になり、冬が来る。残りの今年はあまり駆け抜けないで、足場を確かめながら歩くみたいに過ごせたらいいなと思う。

勢いで作った紙ものがとても可愛かったので、もうちょっと改良してから土曜日を迎えること。

床を掃く、冬の準備をはじめる

仕事場用にモップを買った。

ダイソンの強い掃除機が壊れたタイミングで、吹き出す風で机の上のものが飛ばされるのに困っていたんだった、と思い出したので、風を生まないモップを買ってみた。

エコである。

気づけば増えがちなマイクロファイバーの雑巾が、また一枚増えた。雑巾を装着しとりあえず水拭きをしたら、引くくらいほこりが取れたのでさすが文明の利器だわと思う。

激落ちくんのモップ。

モップ一つ選ぶのにも種類がありすぎて、レビューを徘徊しお値段と機能と品質のあいだをさ迷い、ダスキンのレンタルまで検討するなどの紆余曲折をへて迎えた一品。

クイックルや無印良品のワイパーは、嫌いじゃないけどシートが挟みにくい。それから毎日使い捨てのシートを消費するのも、なんだかエコではない。

「ダスキンのレンタルモップは優秀だ」と母が絶賛していたけれど、いつも裸足だしときどき床に寝転がったりするので、薬品モップを使うのには抵抗があった。

月々の事務手続きが増えるのも、シンプルではないなと思ったから、でもそんなに掃除がしやすいならいつか使ってみたい願望はあります、ダスキンのモップ。

こう、パチンと雑巾をはさみ床をなでるとほこりがよく取れる激落ちくんのモップ。床にぴたりと密着するので、「拭く」ではなく「なでる」感じがしっくりくる。

雑巾を洗うのが面倒くさいではある、でも素足で歩く床がサラサラ気持ちいいので、しばらく使い続けられそうです。よかった。

ピアノを弾く、頑張って鼻歌を歌う

作りたいBGMがあったので、キーボードを引っ張り出した。

しばらく格闘したらそれなりに曲っぽいものができ、「私は天才かもしれない」と録音したものの客観的に聞いたら天才ではないことが分かった。そりゃそうだよなと正気に戻った。

作りたいものは作りたいので、果敢にも人の手を借りることにする。こんなの作りたいんだよねって説明するための音源を作りながら、マイクに鼻歌を吹き込みながら、穴に潜りたい恥ずかしさで胸がいっぱいになった。

一人で楽しむ分にはいくらでも天才になれるのに、人目があるとき、自分の一生懸命さや必死さはどうしたって恥ずかしい。理性では「必死だっていいじゃない」と思うが、年月をかけ、自ら育ててしまった性格なのでどうしようもない。自分のことはいつだって恥ずかしい。

お風呂場の鼻歌が気持ちいいのと同じように、あんまり突き詰めず、主観だけで作ったものをふわっと楽しむだけにしておけば、気楽なのにと思う。たまに、こうやって人にも聞いてもらいたい欲求が生まれたときのジレンマが始末に負えない。

鼻歌を歌う。口ずさむたび自意識がチクチク刺激され、穴に潜りたい気持ちになる。天才ではないのでそう頑張らなくてもいいんだけど、必死だっていいんだけど、人に見せるのは恥ずかしいんだけど、でも一緒に楽しめたら嬉しいはずだから。

あれこれ考えながら鼻歌を歌う。我ながら思考回路が面倒くさい。しかし歌い続ければ自意識はどこかに消えることも、私はすでに学習しているのだった。少しだけ頑張って鼻歌を歌う。頑張ってくれよなと思う。

海へ行く、轍のような足跡を見つける

夢中で写真を撮っていたら、たくし上げたデニムの膝上まで波をかぶってしまった。海へ行くなら濡れるに決まっているのだから、半ズボンを選べばよかった。

パイナップルが刺さったカクテルがよく似合いそうな1日だった。それから自転車のタイヤの跡かねえ、と思っていたものがヤドカリの足跡だったので、びっくりした。

10月だというのに、蝉が鳴いていた。降ってくる紫外線と熱で目玉が溶けそうな、まだまだ南国は夏だった。

帰宅後、瞬きのたび目の裏に疲れが染みて、日差しを浴びるのにも体力を使うんだなと思う。甘ったるい感じの疲労は、プールで泳いだり泣いたりした日の気怠さにどことなく似ており、夜はストンと眠れた。

無い物ねだりをしている、やはり生活を整えたいと思う

半年ほど前は、時間が欲しいとずっと言っていた気がする。ずっと思っていた。

今、割と時間にゆとりができ、心にもゆとりができて、また別の欲しいものができた。少し困っている。どうしてこう、欲しいものってなくならないんでしょうね。

高タンパク低糖質の食事が健康にいい(頭も体もスッキリする)と聞き、さっそく試してみようと思った。鶏むね肉を低温調理してみる。家には優秀なヨーグルトメーカーがあるので、漬け置いて寝かせるだけの簡単クッキングである。

鶏むね肉、100グラム59円。
加熱すること約2時間、いつもは噛むたびギュッとなる鳥むね肉が、まるで魔法みたいにふっくらジューシーに仕上がる。

手間もお金も大してかかっていない、何という健康エコライフかしらと一瞬感動したが、見事に三日坊主で終わった。油(?)がしつこく胃にもたれて、あまり食べ続けたいと思える出来ではなかったのだ。コンビニのサラダチキンはあんなに爽やかでおいしいのに、うまくいかないもんです。

健康的な食生活を送りたい。

味付けでかき込んでしまうような、食べてすぐ眠くなる食事ではなく、食べると頭も体もスッキリして、もうちょっと歩いてみようかな、階段駆け上がってちゃおうかなみたいな気持ちになれる食生活を送ってみたい。Tarzanに載ってるような。

温かい味噌汁を食べ、付け合わせのお野菜をいただき、よく噛みよく消化し、つやつやのお肌で暮らしていく。

時間ができたので実行しない理由はないのだが、鶏むね肉も頑張って作った味噌汁も、たいして美味しくないのが大きな問題なんだよなあ。

健康的な食生活がしたい。ちゃんと計量するとかレシピを見るとか、もうちょっと自分には頑張ってほしいと思う。未来の私へ、いま私は健康的な食生活が欲しいです。

酒に飲まれて星を見る、クーポンで肉を食べる

秋の夜空は、平和だ。

散歩道の途中、開け放った居酒屋のドアからは、にぎやかな酔っ払いの声が聞こえる。圧倒的な陽気さだなあと思う。

人間の決めた緊急事態が終わり、世界は常態に戻ったことになっている。今日からは正常。線引きの力とは不思議なもので、そう言われればそうなんだろうなという感じがする。魔法みたいにリスクが消えてしまうことはないと、頭では分かっているのにね。

平和に歩き続けていると、異常のない平和さの象徴みたいな、穏やかな顔をした酔っ払いが歩道で寝ていた。秋風の吹く丘で天体観測をしています、という感じに、しかも二人並んで。

突然なんのトラウマ! と思うが、似たシチュエーションで私は知人を亡くしている。酩酊からの交通事故である。

聞いたことのある光景に動悸がした。しかし散歩中のひとりは無力だ。見知らぬ酔っ払いに声をかける勇気はない。警察に通報して注意しに来てもらおうと、近くの物陰から彼らを見守りつつ110番通報のシミュレーションをしていたら、寝転んでいたうちの一人が起き上がった。つられてもう一人も起き上がる。立った。歩いた。

…安心した。

酒なんか飲むものではないと思う。人間はお酒に勝てないのだ。理性を溶かして、いいことなんか何もない。飲まなきゃやってられないストレスからは、できるだけ逃げたい人生だった。しらふでも、穏やかな顔で夜空を見たいよ。

ほっとして散歩を続けていると、今度は違う酔っ払いが、バス停近くの弁当屋さん(の、シャッター)にもたれ、幸せそうな顔で寝ていた。

うちの近所が世紀末なのか、それとも長かった緊急事態の反動か、よく分からないがやはり酒は飲むものではないと思う。

翌日は、ホットペッパーグルメのクーポンでお肉を食べた。リクルートが気前よく配布していたクーポンだ。

私はホットペッパーにログインしてネット予約をしただけなので、実質どころか名実ともに正真正銘のタダ飯にありついたのだけれど、不思議な仕組みだよなと思う。

ホットペッパーが集客をする、集客力目当てに飲食店はリクルートに手数料を払い、その手数料で私がタダ肉を食べる。

ご時世なので、あんまり友達を誘うことはしたくないし、SNSでフォトジェニックする拡散力もなく、ただもくもくと肉を食べるだけの客。せめて口コミ紹介くらいはさせていただくので、手数料ぶん、どうかちゃんと儲かってくれよなと祈る。

相手の事情をあれこれ想像して居心地が悪くなるなら、初めからクーポンなんか使わなければいいのにと思うが、クーポンがなければそもそも外食の予定は立てなかったし、資本主義社会においては真っ当なふるまいですと弁解しながらしっかり完食した。

自分が悪人になりたくないだけでしょう、みみっちいな、と思う。でもお肉に罪はなく、とても美味しかったです。

レタスを刻む、月夜のカーテンを閉める

暖かい日に寄り道をして帰ったせいか、選び方がまずかったせいか、買ってきたレタスの中身がえらく痛んでいた。

外側から葉っぱを1枚1枚はがしていき、食べられるところだけを選んで刻む。

いつだったか、友人が「見えている世界が全てではないこと」というようなコピーを書いていた。彼女にとっては、とても実感のこもった言葉であるように見えた。私はあまり理解ができなかったので、なるほど、別の世界がいくつもあるのかと言葉を丸呑みにした。それはまだ消化できずに、胃袋のなかにある。

だいぶ時間が経ったけれども、私には相変わらず目の前しか見えていない。今は、レタスが世界の全てだった。萎びくたびれて、まな板の上で切り分けられていくレタス。外側の葉っぱをめくったら中身は大惨事だなんて、まあ。

「一枚めくってみたら」も、めくってみる前には全てではない世界に含まれていたのかしらと思う。やっぱりよく分からない。捉え方の数だけ世界があるのは事実だ。新しい世界が見たいと切望しているわけではく、久しぶりに友人と会う約束をしたので、彼女の世界について考えてみただけなんだと思う。

生きのこったレタスを、トマトと卵とで酸味の効いたスープに仕上げていただく。

部屋の窓から見える家々の、屋根にくっつきそうなほど低いところに半月が浮かんでいた。夜ごと空気が透明になり、冬が来るなあと思う。