砂上の人、頑張らない環境

何かを頑張ろうと思ったとき、信じられる実績がないので足場がお豆腐のよう、という話。

実績というか、必要なだけの成功体験というか、自信の源になる要素の手持ちがない。いつも、ギリギリのやっつけで乗り越えてきた行いの副作用と思われる。

雑談のなかで、「何もかも積み上げだよ」という話題が出た。健康、キャリア、売上げ、人付き合い、信頼。

だから昨日は「積み上げた〜」などと大層なタイトルをつけたのだけど、別段何も積み上げない日記を書いてしまった。ピアスはかわいいので、月内にお店に並べたい。

https://column.hitonakaya.com/shiyon0722/

日記で、何かを積み上げていくとはどういうことだろう。今日は8,000歩歩きました! とか、そういった記録のことだろうか。撮影した動画の処理をしたよ。公開できるのが楽しみ! といったタスクの積み上げの記録のことかもしれない。達成感と満足のなか、積み上げを続けること。

ガチガチに張り切ってはリバウンドする、そして何もかもを爆破する、振り出しに戻る……みたいな数年周期のサイクルがある。

いい加減、爆発するのはしんどいので、楽しめる範囲で、頑張らない(でも生き残れる)環境や行動を探せたら良いのにと思う。

続けなければ始まらないから、自分で足場を作っていくのだ。ペラペラの紙も、500枚重ねれば鈍器になるもんなあ。

頑張りが過ぎると爆発するけど、積み上げは必要だから、適切な見積もりと逆算、そして準備について考えること。チャレンジは、挑戦の数だけ爆発しても生き残れる環境を作るのと、必ず両輪で。

爆発するのがとても怖いのは、たぶん、気力の底や実力の無さ、自尊心が損なわれる感覚を知ってしまったからだ。これが、歳を取るということかもしれない。

毎日、気温30度越えのなか、汗をだらだら垂らしながら歩いている。歩きながら瞬間英作文をすると、人生が充実しているような感覚がある。

この調子でいけば、3年後にはたいへん流暢な英語が話せるようになっているに違いない。妄想は希望だ。翻訳コンニャクには、遅れをとらないようにしたい。

それにしても暑く、500mlのペットボトルが秒でなくなる。飲んだのと同じだけ汗をかき、モノレールで凍え、帰宅してシャワーで汗を流す。新陳代謝がすごい。生きている感じがする。

10分の1世界

機内誌で、浅田次郎さんのエッセイを読んだ。コロナ禍とは、コールハーンを一足39ドルで買える世界のことだったのかと思う。

しかし、安い。デパートで普通に買うと、10倍以上の価格になるはず。流通過程で乗っかるマージンのえげつなさについて考え、でも上乗せ分でキラキラした接客をしてくれるのだから、それはそれで喜ばしいのか。

飛行機を降りると、呼吸が軽くて驚いた。夏だ。

雨でないのなら、と傘を置いて出かけたら、そういえば私の傘は雨晴兼用だった。空模様は晴天。まっすぐ降りかかる夏の日差しは、肌に痛い。

「つらお…」などと呟いたものの、つらおはビフォーコロナ時代の言葉な気がした。

傘を持ちたくないのは身軽さが恋しいから、でも傘を持つのは保険のためで、保険とは辛い時期をラクにしてくれるものだったな、と思い出す。

半袖の形に、腕は赤く日焼けをした。久しぶりの日焼けな気がする。

赤くなった腕で吊り革を掴む。

電車のサイネージに登場するのは、初めて見る顔ばかり。少しずつ旅を思い出しながら、いま何が流行りなのかを全く知らない、浦島太郎みたいな移動をしている。

私はお前をつれてゆくよ

国境が開き始めている。

飛行機に乗る罪悪感が一気に弱くなった。

長距離を移動することに、罪人のようにビクビクしなくても良いのだ。

予定の合間を縫っては、空の旅を少しずつ再開している。航空券は、ハイシーズンに向けて値上がりの傾向。盛夏は混むし高いけど、6月の飛行機はちょうどいい。

コロナ禍で、ものを手放しすぎたきらいがある。少なさは、身軽さだ。どこへ出かけるにも小さな肩掛けカバン1つで、手というものは塞いではいけないのだと思った。

ここへきて飛行機である。

さすがに3泊4日を、小さなカバンひとつでは過ごせない。しかし、手を塞ぐ荷物は持ちたくない。安心用の折り畳み傘だって、手に握っていたくはないのだ。

愛用していたキャリーバッグを引っ張り出し、掃除をする。放置しすぎたために、持ち手の部分はなんと加水分解でベタベタしていた。その他、良好。思えばこの人といろんな所へ行った。

空っぽのカバンを、コロコロ転がしてみる。2輪のキャスターはスムーズに地面を走る。少しベタついた取っ手を握る、右手。

このカバンがとても優秀なことを、私は知っている。このカバンにたくさんの良いものを詰め込めることだって知っている。

しかし、少し、重い。

正確には、「今の気分には」重い。

悩みに悩んで、キャリーバッグに2泊3日分の荷物を詰めた。手ぶらで行っても、どうせ現地で服を買うのだ。飛行機に乗るたび、間に合わせの服を増やすのも違う気がする。

2泊3日のカバンはスカスカだ。服も、詰めるお土産も、そんなにない。

「ビフォー」と比べたら明らかに軽いけれど、スタスタ歩くにはまだ少し重い。

アフターとぼんやり混ざり始めたウィズの時代、旅もまだ調整中であるわけで、繰り返しによりもっと最適に近い答えが見つかるわけで、きっとそれなりの、落ち着く形の旅が生まれていくのだと思う。

使うものもスケジュールも、行く場所、会う人、全部少しずつ調整しつつ。調整が終わったとき、身軽な両手は何を持っているのでしょうね。

優秀なキャリーバッグ、移動の象徴であったもの。ひとまず今日、私はお前を連れてゆくよ。

満たすべきではなかったと思う、年が明ける

腹を満たす、舌を肥やす、目を養う。
自己研鑽や成長は「よいもの」とされがちだけれど、一度満ちると、不足が気になるようになってしまう。

満たされていない状態は、つらい。
美味しくない食事やつたないあれこれを摂取するのは、つらい。

完璧な正方形だけが美しいわけではなく、欠けやゆがみが当たり前にあるのが当たり前なのだと思う。正解は一つではない、完全は唯一の価値じゃない。思っているのに、許容できない。

心のこもった料理が美味しくなかった。もらったプレゼントがダサかった。そんなことは考えたくなかったと思う。

満たされる経験を重ねるたび、基準値が上がり許容範囲は狭くなる。もしかすると自分を満たすべきではないのかもしれないし、成長と称して世界を広げるのは「幸せ」ではないのかもしれない。

研鑽と称して「よいもの」を知るたびに、不足ばかりが目についてしまう。

整えられた完成形を、正しいものを、レベルの高さを。

そんなことは考えたくなかった。
来年はもう少し、つたなさを含めた物事を愛せるようになりたいと思う。年が明ける。

仕事が要る。そしてご飯を食べねばならない。

その土地に住むためには、その土地の仕事が要る。リモートワークもいいけど、生身の人間と雑談できる環境を作るには、その土地で仕事をするのが手っ取り早いと思う。コスパの問題が解決できるなら、店員さんと顧客の関係でもいい。

他人と接触する必要があるシチュエーションを作る。接触は、日常的に反復でき継続性があること。先述のとおりお店でもいいんだけど、仕事がいちばん効率的だと思う。続けるとご飯が食べられるし。

観光地の悪いところは、「観光地価格」と「地元価格」が分かれてしまっていることだ。サービスの利用は、教育に似ている。それも無意識の、刷り込みに近い教育だ。

私たちはサービスを利用し、お金を払う代わりに価値の提供を受ける。観光地価格の商品のユーザーでない地元の人は、観光地価格のサービスを知らない。知らないものは提供できない。

土地固有の観光資源を潤沢に使ったサービス。提供側にも享受側にも回れない地元の人は、いったいどこに行けばいいんだろう? サービスに触れる環境を整えることも、教育だと思う。

みたいなことを考えて、しかし私にも知らないことがたくさんあるぞと思う。仕事が要る、作り方は知らないけど。大人なので、セルフ教育が必要なのだと思う。

仕事が要る、地面に足をつける

田舎に行ってきた。

その町が田舎だとは思っていなかったのに、行ってみたら田舎になっていた。びっくりした。

この道はこんなに狭かっただろうか、この林はこんなに荒れていただろうか。訪れたのが冬で、どんより曇っていたのがまた悪かった。

まるで時代の風に吹き残されてしまったような、昭和や平成をこびりつかせた建物が、古ぼけて残っていた。町並みを眺めては、もの悲しくなる。住んでいる人からしたら、余計なお世話だろうが。

この町で、私はこんなに寂しかっただろうか。

さびれた街並みのなか、高級なホテルと市役所だけが新しかった。ピカピカのターミナルで次の便を待ちながら、この町には仕事が必要なんじゃないかと思う。仕事、人の流れ、経済だ。

それこそ大きなお世話か。この町で暮らすなら、きちんと自分で動かせる仕事が必要だと思う。私が暮らすなら。

寂れた町がこんなにも悲しいのは、私がここで暮らしたいと思っていたからだった。

とりとめもなく仕事について考えてみるけど、そもそも、寂れていく町に暮らしたいのはなぜだろう。

何もかもが不必要な、大きなお世話で余計な行動なんじゃないかと思う。でも多分、生きるって必要ないことの集合だ、きっと。

生き返る、山について考える

忙しかった。やっと一息つけた感じがする。生き返った。

ここのところずっと山について考えていて、「木を育てたい、山を手入れしたい」という気持ちが脳内を駆け回っている。

山が欲しい、木を育てたい

木は勝手に育っていくので、私が手をかける必要はないんだけど、手をかけたいと思う。
なんだろう、エゴかね。

とはいえそもそも、地元の植生も木の種類も全然知らないので、郷土の資料を探し歩くなどす。

忙しいのも楽しいけど、知りたいこと調べるのもとても楽しい。生き返っている。

期待値も下げていきたいと思う、ゆっくり寝る

塩せっけんなるものをいただく。塩、石けんにまで混ぜてきたか! と思う。

無添加で、石けん素地と塩を絶妙なバランスで配合することにより完璧な泡を作り出せるようになったらしい、ぴかぴかの石けん。

ボディーソープが切れたので、さっそくお風呂場に持っていく。使い心地は何というか、硬かった。

泡立てネットで一生懸命泡立てるけどどうしても泡がへちょっとして、もっちりモコモコになってくれない。

何も入れないと、石けんの泡ってこうなるんだな、ということを学び、同時に普段のもっちり泡には我々すごく甘やかされているんだと思った。

化学薬品を使っていません! と言われると心強い気がするけど、もっちり泡だってすごく気持ちいい。

無添加とちょうどいい添加物、どちらが肌に正しいのかを、実のところよく分かっていない。自分のことをちゃんと知るのは、案外難しいことだと思う。

ゆるい泡を少しなめてみたら、そう言われてみればそうかな…くらいのほんのり塩味がした、気がした。

今日はヤマトの配達を楽しみに待った1日で、日中ソワソワしていたら時間がえらくゆっくり過ぎた。

配達時間を指定すると、どうしたって「時間に間に合ってないじゃない! 配達が遅い! ムキー!」みたいな心理に陥ってしまうことがある。

未熟者め、もっと心にゆとりを持てよと自分でも思うけど、「いま向かってます!」と言われたら期待してしまうのが小さな人間というもので、期待しないでいることはとても難しい。

本当は、宅配便の配達予定なんかは見ないようにするのが正しくて、荷物は忘れたころにポンと届いて予想外なハッピーを浴びるくらいが、心身穏やかでいられるコツなのかもしれないと思う。

人が何してるかを知らなければ、期待しなくて済むもんな。でもそれはそれで不健全な気もする。「君のこと考えたくないから、君については知りたくない」? うーん。

そんなことを考えながらヤマトさんから荷物を受け取り、いい感じの布を譲ってもらったので針仕事のお願いをして、今日はゆっくり眠れそうな土曜日の夜。

いい週末です。

磨いていく、そして繕う

あ! と思い花の写真をシールに出力したら、とても可愛くて幸せな気持ちになったの巻。

大きなものがなかなか進まないので、せめて小さなものを積み上げた週末でした。

かくかくしかじかでリサイクルショップに行く。引っ越し屋さんを母体にしたお店だからか、生活感あふれる家具家電・事務所を引き払って出てきました、という感じの事務用品が並ぶお店だった。

店内は静かすぎて落ち着かない。古いものの放つ変な臭いをかぎながら、目当てのものを探した。とても緊張した。図書館の棚に囲まれた通路を一人で歩いている時の感覚に似ている。

日焼けした領収書やら酸化して白っぽくなった金物やら、誰にも使われなくなったものが、時間を吸いこんで少しずつだめになっていく。おお時間が死んでいく、と思った。

たくさんのものが作られるということは、作られただけのものが処分されるということだ。

「処分」と大雑把にくくっているけど、こうやって、リサイクルショップの澱んだ空気のなか朽ちていくのも、ものの一生の終わり方なのだよなと思う。

ものの気持ちを考える。誰かにまた使われる日を夢見ながら、リサイクルショップの棚に鎮座し続けている長い長い時間。

切ないなあと思うが、ものにロマン主義を適用するのもどうかと思う。切なさは単なる受け手の感覚で、ものはものでしかない。

そもそも、「お店に行く」「品物がある」ということ自体が、ワンチャン買ってもらうために膨大な量の品物を作り、運び並べて誰かに届けば生きられる! みたいな経済活動のあらわれであり、私が知らなくとも見えておらずとも、運良く買われたり買われないまま朽ちていく品物が存在することには変わりがないのだろうな。

陳腐だけども便利さにはやはり別の側面があると思う。当たり前に、色んなものに一つではない理由や意図がある。なるべく立体的に、ものごとをとらえていきたいですね。

結局、必要なものは見つからず、Amazonで買おうか迷っていたら知人からまるっと譲り受けることになった。

嬉しいなと思いながら、本当は違うことを日記に書く予定だったんだけどな…と思いながら、日付が変わってしまうので、本日閉店。

酒が飲める、閾値は下げていきたいと思う

「酒が飲める」歌がある。すごく幸せそうな歌だよねと車を運転する人が言っており、助手席の私はまったくその通りだと思った。

これだけハッピーな気持ちで毎日を過ごせたら、幸せに違いない。でもハッピーさの源がお酒じゃなかったらもっといいのにね、という話をした。

「キーアイテムがお酒じゃなかったら、こんなにヒットする歌にはならなかったのでは?」と言われ、確かにと思う。

お酒は楽しいし、気持ちいいもんな。

理性のタガがぽろっと外れる感じ、いらない表層が剥がれて、繊細に感情が動くようになる、あの感じ。

敏感に気付ける状態を、「閾値が低い」と呼んでいる。少しの刺激で、スイッチをONにできる状態。

お酒がなくとも、変化や揺らぎには敏感になれたらいいと思う。

少しのしょっぱさに塩を理解でき、日差しの揺らぎに秋を気付くことのできる、そういった閾値を持っていられたらいいなと。

とんこつラーメンや九州しょうゆには魔性の味わいがあるけど、澄ませただし汁だって美味しい。陽気な酒の歌を口ずさみながら、合間合間にそういった閾値の話をした。

なんで急に閾値が出てきたのかと思ったら、人がポロポロ死んでいく話を、立て続けに読んでしまったからかもしれない。

命を懸けた情熱も良いものだけど、日々は平坦に続いていくので、できるだけその中に潤いを見つけていきたいものです。閾値は気持ち、下げめに。