〝由々しき事態だ〟

偉人の書いたコラムに、若者の内向き思考を嘆く一節があった。経済新聞の最終ページにあるコラムだ。今の若者は国内の安全なポジションを奪い合うばかりで、新境地を拓く気概はどこへ行ってしまったのか(意訳)という、日本のサイエンスの衰退を憂う文章だった。

一方で、スポーツ面にはJOCがパリ五輪に向けて選手のメンタルヘルス対策への取り組みを強化、といった記事がある。戦い続ける人たちは戦い続ける人たちで、いつもメンタルをごりごり削られる環境下にある。選手のウェルビーイング、という一文がやけに記憶に残った。

自分を削って戦わずとも幸せな生活が存在することを私たちは知っているし、そもそも、世界の頂点で競い合う人たちとは肉体も精神も頭脳も持っているものが違うのでは、とふんわり思っている。ふんわりとしか想像できないほど、競い合う人たちと私の日常の間には、深く深い断絶がある。

戦い続けるには、専門家の力を借りないとウェルビーイングできないほど環境は厳しいが、戦わない日常は衰退だ。目的地はどれだろうか。ハードモードな人生である。

完璧な温たま

空港、お蕎麦屋さん、出発前の手持ち無沙汰な時間。実のところ手持ち無沙汰にしている余裕はそんなになく、締切が刻一刻とにじり寄っているのだけれど気力の弾が底を尽きもう何者とも戦えそうにないのであった。

手荷物検査場からまっすぐ搭乗口に向かう。待合のベンチはまだガラガラに空いており、どこにでも座れる。充電用のコンセントだって何口でも使い放題だ。

ベンチに座る前に、と適当なご飯屋さんに寄った。保安検査場の先にある食事処は、だいたい遠いところに「今食べたい気がするお店」があるので、本来は計画性が求められるアクションなのだと思う、出発直前の食事というものは。

今日も今日とてお米とお肉が食べたい気がしていたところ、付近にあるのはお蕎麦屋さんだけだった。ふっくらご飯と脂を恋しく思いながら、のれんを潜るとかつお出汁の匂いが体を包み込んだ。いい匂い、でも本当に求めるものはそれじゃなかったんだ。

空港価格の高級かけそばに温たまを追加し、セルフカウンターから秒で出てきたトレーを受け取る。小皿に乗った温たまがあんまりにも美しく円かったので、外食産業って本当に産業なんだなぁとしみじみ感動した。決められた器具できちんと時間を測って、適切な手順で作られた完璧な温たま。

完璧な温たまを乗せたかけそばは、当たり前に予想通りの「かけそば」で、完璧な温たまも「温たま」の範疇を越えることはなく、きちんと設計されたメニューを行儀よく食べ席を立った。お席、一回転なり。

混み始めた搭乗口のベンチで、充電コンセントを慎ましく一つだけ使いPCの電源を入れる。出発の時間は迫り、私は締め切りを、そしてメールの返信を乗り越えなくてはならないのだ。

力みも試行錯誤も必要のない、完璧な温たま。大抵の産業は、あんな感じに洗練されていくことができるはず、そんなことを思いながら、定型文をひねってメールの返信を考えた。引き続き、気力の弾は尽きかけている。

ボトル底2mmのシャンプー

ボトルのシャンプーが切れてしまってだいぶ経つ。もちろんとっくに新しいボトルを開けて使っているが、底に2mmだけシャンプーの残ったボトルが、新しいボトルと並んでずっとある。

薄めたり逆さにしてゆっくり落ちるのを待ったりと、使い切る方法は知っているのに、どうもシャンプーボトルに手が伸びない。首のスクリューキャップをひねって、ポンプ部分を外して垂れてくるシャンプーをすくったり薄めたり……そんな手順を想像だけして、億劫さに気が遠くなりそのまま風呂を出る。

私のお風呂グッズは銭湯方式なので、毎回毎回、入浴のたびに空のボトルと新しいボトルを浴槽のふちに並べては風呂上がりに部屋に持ち帰る、といった二重作業をしている。

部屋で、「今日も空のまま持ち帰ってしまった」、翌日には「今日は使い切ってボトルを捨てたい」と、思うだけは毎日思っている。

そもそも、浴室の湯気がやる気を溶かすのがいけない。または、お風呂上がりに待ち受ける、面倒くさい作業たちが心をくじくのがいけない。本当はきちんと生活したいのだと、やはり思うだけは毎日思っている。

今日も私は生きているので、食事をして歯を磨き、皿を洗い入浴したら髪を乾かし、ついでに保湿や洗濯など、人生に付随するあらゆることに気力を傾けなくてはいけない。動作のたびに削って削って、ボトル底2mmのシャンプーに充てる気力が残る日はいつになるのか。

ボトルごと捨ててしまう日の方が、早く訪れるかもしれない。(頑張りたい)

リピート、リピート、リピート

メールを打つのが遅い。気づけば30分経っていた! といったことがざらにあり、なお悪いことに、枝葉は異なれどメールの内容はほぼほぼ同じ=繰り返し、同じところで日々足踏みをしている。

足踏みしている暇はないんだ、ということでテンプレ入力ツールを探したところ、ネットの集合知に、PhraseExpressというアプリが便利だよ、と教えてもらった。

さっそく使い始めたところ、文章のテンプレ化はなるほど便利だ。30分かけていた文章がキータッチ3回でほぼ仕上がる。あの時間はなんだったのか、という悔しさや悲しみに似た感情が湧き上がってきたので、「まぁ落ち着いて」と心に蓋をした。

以前、仕事をご一緒した人に、「メールは長文でガッと送るより、都度都度キャッチボールをした方が相手とのすり合わせがしやすいよ」と習ったことがある。確かに、テンプレだけで解決できる物事はそう多くないから枝葉のアレンジが必要になるのだ。

同時に、触れ合った回数分、我々は他者に親しみを感じるのだろうなと思う。挨拶をする、お礼を言う、ちょっとした質問に快く答える・答えてもらう。そうやって築かれる関係性が間違いなくあり、仲良くなることは無上のメリットに違いないのだけれど、繰り返しによる疲弊だって存在している。

繰り返し繰り返し、毎日の挨拶に30分かけていたのが「おはよう」の一言になったと考えると、それはそれでハッピーなのかもしれない。

軽やかに積み重ねていくこと、軽やかに繰り返せること。メールの省力化によって、今後、私の周りの総親しみ値のようなものが底上げされると嬉しい。

アイキャッチは、工房でつくった拭き漆のお箸。

ハズレくじを引かない

二〇二四年一月の下書きに残っていた日記

普段行かない道の駅で、手作りのお菓子を買った。あまり美味しくなかった。口直しに魚の天ぷらを買った。またもや、あまり美味しくなかった。泣きっ面に何とかである。酸化した揚げ油が口の中にこびりつき、いっそ悲しい気持ちになった。

これでダメなら諦めるしか、という心境でコンビニへ行く。祈りながら、ローカルで有名な天ぷら屋さんの天ぷら(ホットスナック)を買った。安定の味がした。期待を裏切らない品質にほっとする反面、新年早々ハズレを引いてしまった不運に落胆する。こんなはずではなかったのに。

お菓子に対する、期待値が高すぎたのだと思う。または、普段口にしている「おやつ」が、個人で作れる美味しさのレベルを軽々超えてしまっている。製品の企画であったり、風味や素材の研究であったり、競合他社との熾烈な争いを勝ち抜くための過程で磨かれた品質が、私の味覚を知らず底上げしてしまった。コンビニに100円ちょっとで並べられる、お手頃な味覚だとは思うが。

ブランディングとは期待値コントロールである、というnoteをいつぞや読んだ。少し前のことだと思っていたら、2019年の記事だった。期待の先に購入があり、購入の先には発信の循環があるという。まさにこの日記が発信である。

ハズレくじは引きたくないと思う。しかしそもそも期待値なんていうものがあるから、期待値未満のハズレが生まれてしまうのだ。私たちは物事につい期待を抱いてしまうけれど、はじめから「正解」だと分かっているもの以外に、期待するのは危険だ。

市場競争を経ていない、または競争相手が少ない商品はハズレの可能性が高い。でも有名でないものは美味しくない、というのは違う。

包装の質は味に影響しないが、パッケージに心を預けないというのもまた違う。可愛いパッケージにはときめいていたい。そしてみんなに大して評価されないものが、ピンポイントで私のツボをついてくることだってある。

ハズレくじは引きたくない。でも未知への期待を止められない。長距離ドライブの先には、土地に根付いた日常──私にとっての非日常があってほしい。道の駅を訪れるとき、いつだって私の胸は希望と期待に膨らんでいる、だから美味しくないおやつが悲しかった。ただそういう話だった。

身に覚えのない督促電話

知らない電話番号から着信があり、要件を聞くとカードやローンの督促電話だった、ということが複数回あった。

別人あての督促で、誤登録か解約済みの電話番号が私に割り当てられたのか、要件が要件だけに受けるたび心臓がヒャッとなる。

詐欺かと思ったけれど、電話番号を調べたところ、どうやら本物の督促らしい。

「別人あてなのでもう電話してこないでください」というのをカード会社や信販会社に伝えれば問題はないものの、かかってくる電話の相手は自動音声で、対応パターンが「本人ですか? 違うようなので切りますね」しかなく、こちらの事情は一切考慮してくれない。

人力で督促電話をすると働き手の消耗が激しそうだし会社の対応としては合理的とは思う一方、でもまあ、こちらとしては不便極まりないわけです。

対応してくれそうな窓口を探して電話をかけ(チャットbotはヘルプページしか案内してくれない)、音声ガイダンスの本人確認で弾かれ、めげずにそれっぽい窓口に電話をかけ続けたら、4件目の番号でようやくオペレーターさんに繋がった。

「もう疲れ切って色々どうでもいいです」と言わんばかりの無機質でローテンションな対応をされ、お客様サポート窓口って、働く人にとっては鬼門よなあ、と思う。

その後すぐに登録を変更(?)してもらえて一件落着となったのだけれど、ナビダイヤルに数百円費やしてしまったのは、誠に痛恨の極み。

かたや、メールでのお問い合わせ窓口が設置されている会社の場合は、メールを打つ5分間ですべてが解決したので、もう全社メール対応を標準にしてくれよ、と思う。

しかしメールにしたらしたで、解読困難な問い合わせへの対応コストなんかが爆上がりしてしまうのかもしれないなあ。

本当は着拒にして無視、が一番楽な解決方法だったに違いない。無視する罪悪感に耐えきれずに連絡を入れたものの、実のところ、今回のことで私が心を痛める理由は特になかった。

それにしても、全然知らない人の財政事情(や、計画性)が心配になる量の督促だった。ちゃんと生きてくれよな。

逃げないで、二月

変化量の閾値というものは案外大きくて、降り積もる毎日をサラサラと見逃してしまいがち。

積み重ねることでしか辿り着けない場所というのが絶対にあって、サラサラしている場合ではないと思うのだけれど、気付けば2月も半ばを迎えてしまい気ばかり焦っています。

逃げないで、というのは時間のかたまりへの呼びかけではなく、刻一刻流れる今への懇願に似ている。今日もちゃんと生きよう。

またひとつ年経ること

新年一日目を山で過ごした。どこもかしこも混んでおり、みんな元気だなあと思った。カメラを持って過ごしたものの、どうもピントが合ってくれない。

祈りの場所がいくつもある山には、「ここを潜れば新しい人生が拓かれる」といわれるパワースポットがあった。もちろん大喜びで潜ったが、悠久の時を過ごしたであろう大木と巨岩に囲まれていると、一発逆転的な幸運という響きには、あまり説得力がない。

植えた木が一晩で巨大になることはなく、土くれは明日も土くれのままだ。ソテツの木肌にひし形が刻まれているのはその一つ一つに葉が育っていた名残であるし、クモの巣は一本の糸を張り巡らせてできている。

一発逆転、それは天変地異だ。ほとんどの場合、結果には原因があり、明日は今日の地続きにある。ゆっくりと、時間をかけてしか育まれない山を見ていると、そう思う。

また一つ年を経て、目まぐるしく移る日々に区切りがついた。始まったそばから今日の時間が勢いよく過ぎていったが、きちんと育ったことを実感できる二〇二四年にしたい。

帰路で緊急地震速報を聞く。能登半島で最大震度7、暦や生業を問わず、私たちは地上で過ごす生き物であることからは逃げられないのだなあと思う。多くの人が無事でありますように。

赤子の頭を撫でるように

忘年会の席で、「歯磨きをしすぎて知覚過敏になった」という話を聞いた。

「ゴシゴシ磨くと良くないんだよ、歯は、赤子の頭を撫でる力で磨くんだ」と人生の先輩が言っていたので、なるほどなぁと思う。帰宅して歯ブラシを握るとき、ナイロンの毛の先にふわふわで頼りない骨格の赤ちゃんの頭を思い浮かべる。歯磨きという義務的な日常の動作において、はっとするほど趣のある表現だった。

今日は親切なお姉さんに、炭酸水にくし切りのレモンを絞って貰えて嬉しかった。車だからと炭酸水を頼んだら、「レモンを用意しましょうか?」と店員さんが尋ねてくれた。何かのサワー用のレモンがきつく冷えた炭酸水に種ごとダイブしていき、予想外の提案や思いがけない優しさが、こんなに心に染み入る年末。

うるしはいよいよ青い葉が全て落ち、春になったらちゃんと再び芽吹くのか、試練の冬が始まります。

軽やかなカメラと231210のうるし

先日、カメラを置いて旅に出たところ驚くほど快適だった。一キロちょっとの重量を肩に負い続けるのは、自覚していた以上にストレスだったようだ。荷物が軽くなると足取りも軽くなる。いい気分でiPhoneのカメラアプリを使い倒したけれど、「いい写真」をPCで見ると、画面の粗さに涙が出た。

重くてはいけないけど粗いのも切なすぎる、ということで、サブ機にキヤノンのKiss X10iを迎えることにする。

届いた日からほぼ毎日持ち歩いて、そういえばシャッターを切るのは楽しかったということを思い出す。構える前の「よっこいしょ」がなくなると、軽々しくカメラを取り出すことができる。浮かれポンチな軽やかさだ。

レンズは標準レンズ、画質はキヤノンだなあという感じがして、ピントも綺麗に合うし速い。大きいモニターで見ても、データを印刷しても粗さに悲しくなることはない。それ以上の良し悪しは実のところよく分からないが、お値段以上に楽しく撮影できている。

初めて買った一眼レフカメラもKissシリーズで、確かX7iに40mmのレンズが付いていた。

ズームできないレンズがあることを購入後に知り、設定をいじらないと真っ暗だったり被写体がブレブレの写真になってしまうことも、購入後に知った。F値だのISOだのについては学生時代にさんざん習ったはずなのに、まったく教育を無駄遣いしている。

その後、写真好きが集まるコミュニティにご縁があり、「撮影は楽しいもの」と自分に刷り込むことができてよかったと、振り返って思う。

久しぶりにカメラが軽いし、贅沢にも一眼レフを二台持ちする大富豪になったので、定点動画と静止画撮影を併用する機会を増やしていきたい。

そういえば7月に、「アリが漆の新芽にたかっているが、アリは漆のかぶれ成分にやられることはないのか」といった日記を書いたのだけれど、漆にはどうやら薬効があるらしく、もしかするとアリは体にいいものをきちんと理解しているのかもしれない。

この頃の漆は、葉が落ちてしまって枯れ木の様相。間違った世話をしてしまったからか、冬だから冬芽という形態になっているのか、雪国の植物を南の島に連れてきてしまい、辛い冬を過ごさせていないかだけが不安である。

12月のとんでもない晴天