
二〇二四年一月の下書きに残っていた日記
普段行かない道の駅で、手作りのお菓子を買った。あまり美味しくなかった。口直しに魚の天ぷらを買った。またもや、あまり美味しくなかった。泣きっ面に何とかである。酸化した揚げ油が口の中にこびりつき、いっそ悲しい気持ちになった。
これでダメなら諦めるしか、という心境でコンビニへ行く。祈りながら、ローカルで有名な天ぷら屋さんの天ぷら(ホットスナック)を買った。安定の味がした。期待を裏切らない品質にほっとする反面、新年早々ハズレを引いてしまった不運に落胆する。こんなはずではなかったのに。
お菓子に対する、期待値が高すぎたのだと思う。または、普段口にしている「おやつ」が、個人で作れる美味しさのレベルを軽々超えてしまっている。製品の企画であったり、風味や素材の研究であったり、競合他社との熾烈な争いを勝ち抜くための過程で磨かれた品質が、私の味覚を知らず底上げしてしまった。コンビニに100円ちょっとで並べられる、お手頃な味覚だとは思うが。
ブランディングとは期待値コントロールである、というnoteをいつぞや読んだ。少し前のことだと思っていたら、2019年の記事だった。期待の先に購入があり、購入の先には発信の循環があるという。まさにこの日記が発信である。
ハズレくじは引きたくないと思う。しかしそもそも期待値なんていうものがあるから、期待値未満のハズレが生まれてしまうのだ。私たちは物事につい期待を抱いてしまうけれど、はじめから「正解」だと分かっているもの以外に、期待するのは危険だ。
市場競争を経ていない、または競争相手が少ない商品はハズレの可能性が高い。でも有名でないものは美味しくない、というのは違う。
包装の質は味に影響しないが、パッケージに心を預けないというのもまた違う。可愛いパッケージにはときめいていたい。そしてみんなに大して評価されないものが、ピンポイントで私のツボをついてくることだってある。
ハズレくじは引きたくない。でも未知への期待を止められない。長距離ドライブの先には、土地に根付いた日常──私にとっての非日常があってほしい。道の駅を訪れるとき、いつだって私の胸は希望と期待に膨らんでいる、だから美味しくないおやつが悲しかった。ただそういう話だった。