ふゆさむ

一月が去ろうとしているのに、大した何もできず過ごしている気がします。ただ流れ流れていく時間に抗いたく、鉢植えを買いました。

水やりの感覚も土の盛り方も分からないまま、とにかく苗を迎えたので、世話の仕方を学びつつ観察しつつ、無事に育てていきたい。

続けることが壊滅的に苦手なので、命があるものを扱うのは少し怖い。朝起きて草履をつっかけ(足が寒い)、芽が死んでいないかパトロールする暮らし。

紙くい虫

プラカップに詰められた牛丼を食べた。冷えて固まった米の上にはお肉が載っており、縮れた肉は「生であれば向こうが透けて見えたのでは」と思うほど薄い。

薄く縮れたお肉と玉ねぎと、茶色くタレが染み込んだご飯を積みかさね口に運ぶ。冷たい牛丼はさまざまな技術の粋を集め、さまざまな要素との折衝をおこない、ひとつの最適解として導き出された味をしていた。ファストフードとしての牛丼は、とても美しい資本主義の結晶であると思う。それでいて、食事としてはひどく原始的だ。詰まるところ、人間は生きるために食事をするし食事のために生きている、そういった必要最低限を感じさせる味がする。

あんまりにもお肉が薄いので、もしやこの厚みは紙といい勝負なのではと思う。肉を仕入れ、輸送し、薄く薄く加工して適切な品質管理のもと全国の消費者へ適切な価格で提供する、そして社員を養い株主に利益を還元し牛丼屋は今日も経済を回しているのであった。経済の末端には、紙のようなお肉を頬張り、お腹を満たす私がいる。

牛丼(並)は名前のわりにずっしり重かった。満腹になった。テレビのCMでは、Amazonの段ボール箱が陽気に幸せを歌っており、こちらもまた、美しく完成された形だと思う。

新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。今年もよろしくお願いいたします。

2023年をを迎える瞬間を、コインランドリーで過ごしました。何もせずドラムが回る音を聞いていたところ気付けば日付が変わっており、「新年」などと区切ってはみても、結局すべては今の地続きのところにあるのだよなと雑なポエムを詠むなど。

それからTwitterで知り合った方がアカウントを消していることに気付き、またどこかでお会いできるといいなあと思いながら、乾燥機にかけたブランケットやタオルをたたんだのが、今年最初の働きでした。フカフカの布地は気持ちがいい。

何事もフカフカは気持ちがよく、手入れをすれば気持ちよさを返してくれる、それはタオルに限らないことです。体も然り、きちんと大切にして引き続き健康第一で過ごしたい。いい年にしましょう。

人人心心の花

「博物館や美術館に行ったら、必ず音声ガイドを借りるんです」と、大学時代の教授が言った。4年間で学んだ内容のうち、最もその後の行動に影響を与えたことのひとつだと思う。

「人々心々の花」という、世阿弥の言葉がある。見る人の心にそれぞれの花がある、というニュアンスの言葉だ。感じ方は人それぞれ、同じものを見たとして、誰もが同じような感想を持つわけではない。

物事と向きあう時、例えばその「物」が、選び抜かれた逸品であればあるほど、私の世界は浅い。素晴らしい物に心を震わせる感性と、なぜそれが素晴らしいのかを理解するための知識は、両輪でなければつまらないと思う。

人は自分の目でしか世界を見ることができず、知らないことは想像すらできない。何にも知らないままでは、きれいな物を並べられても「きれいだね」で終わってしまう。しかしながら、花の美しさにも色々あるのだ。

世界をいかに豊かなものと捉えられるかは、世界と向き合う人の目にかかっている。博物館や美術館、逸品ばかりが並ぶ場所で、私の視界の浅さを補うのが、ガイドなのだと思う。

京都には、解説が必要な逸品が山ほどある。ガラス越しに見る作品の、額縁の外側に続く背景に思いをはせることができるのは、他人の知識を分けてもらったから、なのだよなあ。

卒業してから、教授とは疎遠になってしまったが、音声ガイドを手に取るたび思う。世界には知らないことがたくさんあり、知らない感動もたくさんある。知らない扉を開けるために、人の力はいくらでも借りたい。兼好法師も、わざわざ書き残すわけだ。

明日からは雨。雨なりの予定を立てて、オンライン英会話の残念な成績で泣きそうになり、切ないご飯を食べた一日の終わり。

LCCがお安かったので、古都

「ここに都市をつくろう」という意志をもって造られた街なのだ、という感じがする。京都の大路を歩いている。

まっすぐ伸びた道の向こうにけぶる山があり、太陽が西へ落ちていくのがよく見えた。東京の丸の内に似ていると思うが、そもそもこちらが元祖だろう。頭に浮かぶ感想はどれも小学生じみていて、勉強不足が恥ずかしい。

地図で見る京都は、碁盤の目のように、キチッと整えた道が巡らされた街だ。直線と直角からなる地図からは、潔癖に近い几帳面さ、計画を遂行する権力がもつ冷たさ、無機質さのようなものがにじみ出ている気がしていた。

歩いてみれば、碁盤の目には少しずつ個性や愛嬌に似たひずみが存在しており、やはり人の暮らす街なのだと安心した。

自転車がたくさん走っている。意外と安いスーパーがある。犬の散歩をしている子どもがいる。歴史的建造物とホテルに混ざって、地元の人たちの生活が存在していた。まるで非日常のような日常を、この人たちは暮らしているのだと思う。

日が暮れて、東の山から来た夜が、とっぷりと街を覆う。いろんな形をした軒先に明かりが点き、通りをいく人々をぼんやり照らした。買い物帰り、ランニング、デートの途中、日常の土曜夜を過ごす人々。

明日はどこへ行こうかと考える。確固たる目的があるわけではないけど、たくさんの景色が見れたらいい。知らない街を歩くのは、やっぱり楽しい。

カレーパンを落とした

ムシャクシャしていた。こんな日にはアメリカンドッグを食べるものだと、相場が決まっている。通り道のセブンイレブンに寄り、ホットスナックの棚を確認する。アメリカンドッグ、よし。PayPay顔認証よし。なんてこった、今日は「お店で揚げたカレーパン」まである。

こんなとき、カロリーは救いだ。落ち込んだ心にすっと明かりが差し込んだ気がした。アメリカンドッグと、カレーパンを買う。「温めますか」と聞かれたのでしっかりチンしてもらい、意気揚々と店を出た。

川沿いの道、あたりは酔っ払った観光客だらけだ。南国のムッと湿気た夜に、陽気なネオンが光る。こんな夜に、ムシャクシャなどしていたくはないのだ。

歩きながらホットスナックの袋を開けた。アメリカンドッグを掴む反対の手で、ケチャップを取り出す。取り出したケチャップを落としそうになり慌てて握り直すと、足の付け根のあたりでケチャップが爆発した。あの、真ん中でパキッと割って使うタイプのケチャップだ。当たり前にズボンはケチャップだらけになった。つらい、と思った。

ほんの少し残ったケチャップを、アメリカンドッグに絞り出す。申し訳程度の酸味、酸化した油のえぐみ、ネチネチした粉ものの食感、ケチャップにまみれたままのズボンと左手。すべてが、ムシャクシャした心を宥めるのには、全くの役者不足だった。

つらかった。

つらさを分かち合う人もいないので、橋のたもとで黙々とアメリカンドッグをかじる。ちょうど満潮の時間らしく、川面が橋にくっつきそうなほど近かった。川は街の明かりをとろとろ映しながら流れていく。飲み屋の戸が開き、ひときわ賑やかな声が聞こえる。

私以外の人は誰もが楽しそうで、ケチャップにまみれたまま、一体どうしたものかと思った。気を取り直しカレーパンの袋を開いたら、中身が飛んで地面に落ちた。本当に、つらい。

荷造りをする、西日に大汗をかく

荷造りついでに片付けをした。出先で万が一なにかあったとき、他の人に部屋を見られても恥ずかしくないように。いつでも片付けをしている気がする。永遠に手に入らない、美しい部屋と整頓されたデスクトップ。

ひと仕事終え、例によって散歩に出かけた。歩きながら大発見をした。

私の母は、歩くとき腕を左右に振る。なぜ前後ではなく左右に振れるのだろうと思っていたが、どうやら肩が内側に入ってしまうと、左右にしか腕を触れなくなるらしい。

それ、たぶん猫背っぽくなってるせいだから、肩甲骨を寄せるといいよ、と今度伝えたいと思う。

真昼はクーラーの効いた部屋に潜んでいたが、そろそろ夕方だしと出かけてみたら西日がきつい。ときどき思い出したように吹く、ちっとも夕方を感じさせない風。駅まで行って帰って、Tシャツが貼り付くほど汗をかいた。

びっくりするほど夏

8月も終わりが近づいてきて、行く季節が日に日に惜しくなる。天気は灼熱の快晴続き、太陽が夏の在庫を放出しているみたいだ。

今日も例に漏れず、晴天。汗をダラダラかきながら歩く。夏はもう十分間に合っているが、消化試合にはまだ早い。何度でも海に行きたいし、冷やしたきゅうりが美味しいし、遅い時間の夕暮れは1日が伸びたようで嬉しい。あまり叩き売らないでほしい。夏。

写真を撮り動画を編集し、キーボードを叩く。ダラダラしつつ仕事を進めた。秋が来る前に、もう一働きしたい。今日も冷やしたきゅうりが美味しかった。健康的なおやつ。

全然関係ないが、オーディオブック聴き放題の「Audible」の無料期間が終わってしまった。高評価レビューを見て試用を始めたのにいまいち活用しきれず、もったいないと思う。

紙での読書も電子書籍も、ブラウジングも目を酷使する行動なので、もう少し耳を活用できるようにしたい。人生100年。

日記を書ける日常

朝起きて所用のため外出。用事が終わったので帰宅してPC作業、ストレス解消のためウィルキンソンの強炭酸を1L飲んだ。気持ち程度のストレッチをして、寝る。

平坦な1日だった。PCに向かいながら来月の計画を立てたり、印刷予定の冊子について注文をつけたり、内側ばかりが忙しかった。

近ごろの予定を振り返ると、「何にもなかったな」と思う。内面のことは充分間に合っているので、外側にもう少し起伏が欲しいと思う。

明日は何をしよう。すっかり溜めてしまった記事をどかんと書きたい。でも、これもやっぱり内側のことだなあ。

色気より食い気、空腹と文化

「帰りは美術館に寄ろう」と決めていた。朝の時点では、間違いなくそうする予定だった。

でもまぁどうして、お昼前にはお腹が空くのだ。空腹のまま美術館には寄る気がしなくて、混雑きわまる日曜日のランチタイムに繰り出していく力もなく、そのまま帰宅した。

近頃、いわゆる文化人の書いた本をよく読む。暮らした家が、そのまま史跡になっているような人たちの本だ。

彼らが道すじを作った文化について、知れば知るほど、系統立てるということには、余裕(メモリのようなもの)が必要なのだと思う。

膨大な著作や美しいコレクション、国内外を行脚した記録を見るにつけ、巨塔のような財力や体力や知力に、打ちのめされた気持ちになる。

一体どう生きれば、これだけの成果を残す人生を送れるのか。少なくとも、ルーティーンのような仕事や生活に、ただ流される生き方ではなかったんだろう。

生活に直接は役立たない「文化」というもの。少しも空腹を満たしてはくれないもの、それでいてやたら魅力的に映るもの。

文化論を語り続けた人は、余裕があったから、文化などにリソースを注げたのではないか?

わからない。生活に押し流されて、四六時中お腹を空かせていた文化的偉人も、そんな中で、血のにじむような努力を重ねた偉人も、たくさん存在してはいるのだろう。私が無知なだけだ。

その人はきっと、並外れた情熱と能力を持ち、空腹でも美術館に立ち寄れる人に違いない。

何事にも必要なのは、障害を打ち砕く根性か。いや、やっぱり、事前にランチのお店を予約しておく時間と心のゆとりかも。そんなことを考えながら帰った、令和の平凡な日曜日。