色気より食い気、空腹と文化

「帰りは美術館に寄ろう」と決めていた。朝の時点では、間違いなくそうする予定だった。

でもまぁどうして、お昼前にはお腹が空くのだ。空腹のまま美術館には寄る気がしなくて、混雑きわまる日曜日のランチタイムに繰り出していく力もなく、そのまま帰宅した。

近頃、いわゆる文化人の書いた本をよく読む。暮らした家が、そのまま史跡になっているような人たちの本だ。

彼らが道すじを作った文化について、知れば知るほど、系統立てるということには、余裕(メモリのようなもの)が必要なのだと思う。

膨大な著作や美しいコレクション、国内外を行脚した記録を見るにつけ、巨塔のような財力や体力や知力に、打ちのめされた気持ちになる。

一体どう生きれば、これだけの成果を残す人生を送れるのか。少なくとも、ルーティーンのような仕事や生活に、ただ流される生き方ではなかったんだろう。

生活に直接は役立たない「文化」というもの。少しも空腹を満たしてはくれないもの、それでいてやたら魅力的に映るもの。

文化論を語り続けた人は、余裕があったから、文化などにリソースを注げたのではないか?

わからない。生活に押し流されて、四六時中お腹を空かせていた文化的偉人も、そんな中で、血のにじむような努力を重ねた偉人も、たくさん存在してはいるのだろう。私が無知なだけだ。

その人はきっと、並外れた情熱と能力を持ち、空腹でも美術館に立ち寄れる人に違いない。

何事にも必要なのは、障害を打ち砕く根性か。いや、やっぱり、事前にランチのお店を予約しておく時間と心のゆとりかも。そんなことを考えながら帰った、令和の平凡な日曜日。