美しきあれこれ

美しさを知ることは、美しくないものを切り捨てる判断基準を得ることだ。そんな判断基準を身につけてしまうと、これまで見ていた世界の「美しくないもの」が目につくようになってしまう。

美しさを知ってしまったときの、私の態度は高慢ちきだ。無自覚に、美しくないものは無価値だと断じては、ふと我に返ってドン引きする。

ポジティブな情緒について、閾値はあまり高くない方が日々の幸せは多い。それでいて、ゲインを上げに上げた先でようやっと見つかる、ささやかな心の動き、ささやかな風景の移ろいが持つパンチ力も無下にはできないのだ。

磨こうチューニング力、そして人間性。美しさを知るのことの両輪として。

汗をダラダラかきながらそんなことを思ったのは、嘉数仁然さんの宗元寺〜壺屋歩きツアーの前後のことなのだけれど、ブログに書くには出力が足りないようです。

しゃべくりを聴きながら四分の一日歩き通して、楽しく過ごすために人様の知恵をお借りできるのはとてもありがたいなあと思いました。

日記を書ける日常

朝起きて所用のため外出。用事が終わったので帰宅してPC作業、ストレス解消のためウィルキンソンの強炭酸を1L飲んだ。気持ち程度のストレッチをして、寝る。

平坦な1日だった。PCに向かいながら来月の計画を立てたり、印刷予定の冊子について注文をつけたり、内側ばかりが忙しかった。

近ごろの予定を振り返ると、「何にもなかったな」と思う。内面のことは充分間に合っているので、外側にもう少し起伏が欲しいと思う。

明日は何をしよう。すっかり溜めてしまった記事をどかんと書きたい。でも、これもやっぱり内側のことだなあ。

砂上の人、頑張らない環境

何かを頑張ろうと思ったとき、信じられる実績がないので足場がお豆腐のよう、という話。

実績というか、必要なだけの成功体験というか、自信の源になる要素の手持ちがない。いつも、ギリギリのやっつけで乗り越えてきた行いの副作用と思われる。

雑談のなかで、「何もかも積み上げだよ」という話題が出た。健康、キャリア、売上げ、人付き合い、信頼。

だから昨日は「積み上げた〜」などと大層なタイトルをつけたのだけど、別段何も積み上げない日記を書いてしまった。ピアスはかわいいので、月内にお店に並べたい。

https://column.hitonakaya.com/shiyon0722/

日記で、何かを積み上げていくとはどういうことだろう。今日は8,000歩歩きました! とか、そういった記録のことだろうか。撮影した動画の処理をしたよ。公開できるのが楽しみ! といったタスクの積み上げの記録のことかもしれない。達成感と満足のなか、積み上げを続けること。

ガチガチに張り切ってはリバウンドする、そして何もかもを爆破する、振り出しに戻る……みたいな数年周期のサイクルがある。

いい加減、爆発するのはしんどいので、楽しめる範囲で、頑張らない(でも生き残れる)環境や行動を探せたら良いのにと思う。

続けなければ始まらないから、自分で足場を作っていくのだ。ペラペラの紙も、500枚重ねれば鈍器になるもんなあ。

頑張りが過ぎると爆発するけど、積み上げは必要だから、適切な見積もりと逆算、そして準備について考えること。チャレンジは、挑戦の数だけ爆発しても生き残れる環境を作るのと、必ず両輪で。

爆発するのがとても怖いのは、たぶん、気力の底や実力の無さ、自尊心が損なわれる感覚を知ってしまったからだ。これが、歳を取るということかもしれない。

毎日、気温30度越えのなか、汗をだらだら垂らしながら歩いている。歩きながら瞬間英作文をすると、人生が充実しているような感覚がある。

この調子でいけば、3年後にはたいへん流暢な英語が話せるようになっているに違いない。妄想は希望だ。翻訳コンニャクには、遅れをとらないようにしたい。

それにしても暑く、500mlのペットボトルが秒でなくなる。飲んだのと同じだけ汗をかき、モノレールで凍え、帰宅してシャワーで汗を流す。新陳代謝がすごい。生きている感じがする。

相談の電話をする、積み上げた足場からしか見えない世界がある

電話口の話し合いだけでは物事は進まないし、写真や動画を撮るだけでも、やはり物事は進まないのであった。

つまるところ、何を完成させられるかが大切なんだよなあと思いながら、今日はかわいい糸を譲っていただいたので、試作。

軽くて柔らかい糸なので、もうちょっとボリュームがあった方がいいかもしれない。

とりあえず、かわいい。

ユー・ニード・コンフィデンス

Because I want to improve my business. などと言ってみたものの、英語を学ぼうと思ったのは、迷子の観光客に、話しかけることができなかったからだ。

コンビニを出たところで、「wrong direction」というつぶやきが聞こえた。声の主は、海外の人だった。

私が歩いていたのは、有名な観光地の近くで、観光地の真反対、住宅地を奥へと向かう外国からのお客さんは、なかなかに目立っていた。

もし、その人が私に道を尋ねてくれたら、指差し付きでオーバーゼア、くらいは答えられたかもしれない。しかし、その人はスマートフォンの地図をぐるぐる回していただけだったので、私は彼の横を緊張しつつ通り過ぎた。

通り過ぎながら、少なからず自分にがっかりしていた。私は、困っている人に声をかける、ちょっとした勇気もない人間だったなんて!

実のところ、彼が困っていたように、私もサイレントで困っていたわけなのだが(声をかけた方がいいかな、どう話しかければいい? 道を聞かれたら何て答えるのが正解? うーん、分からないどうしよう)、解決できなかった困りごとは、自尊心をひどく傷つけた。

私に、エクスキューズミーひとつ分の勇気があったなら。損なわれた自尊心を回復するため、解決策としてのオンライン英会話を試みたのだ。

とはいえ、雑談するためだけに受講料を支払うのはもったいない。ビジネスにも使える英会話クラスを受講するのに、「迷っている人に話しかけることができなくて……」という理由はなんだか恥ずかしく、そぐわない気がした。

仕事が、商品がなどと一生懸命喋っていると、笑顔が素敵な先生が、oh, you need confidence. と言った。わーお、と思った。

ユー・ニード・コンフィデンス。あなたには自信が必要なのね。そう、私が欲しているのは、英語力ではなく自信だったのだ! マーケティングのお手本のような分析である。

プログラムを選び、技能──ここでは英語のこと、を身につける。何かをやり遂げた経験は、達成感とともに自信を育み、自尊心を守るのだ。

少しのきっかけを作り出すための自信。そのために月額いくらの費用を投じる、高くつく自尊心だと思う。

夕方、たまたま目にしたCMでは、Google pixelがクールな即時翻訳機能を披露していた。スマホを介せば、私たちは世界中の人と会話ができる。

テクノロジーの発達により、そのうち外国語を勉強する必要のない時代になる。何年も前から言われ続けていたことだ。気付かない間に、今日は「そのうち」を追い越してしまっていた。

もう少し先の「そのうち」、テクノロジーが問題をすべて解決してしまったら、技能の習得が必要ない世界で、小さな自尊心はどう守られていくんだろうか。

今日の私には、解決に自力が必要な困りごとが、まだ残されている。もしかすると、自尊心にとっては最後のボーナスタイムなのかもしれない。いや、ただの努力信奉かも。

「朝のふきげん」を直す

朝の私は、人に優しくできない。

朝、何かにつけて他人にイラッとしてしまうのは、寝起きの体調のせいかしらと思う。

大抵の場合、昼ごろには心が2回りほど広くなり、朝の行いを反省している。

反省にはカロリーを使う。自己肯定感が下がり、心がすり減る。

起床してからの経過時間なのか、人に会った回数か、不思議と昼には心が広くなっている。そして、「ヤダ、私の態度、ひどすぎ……?」と思うのだ。

人に会う時は、いつも昼のテンションで過ごしたい。

朝の不機嫌タイムを周りにぶつけてしまわないよう、今年は朝早く起きることを習慣にしてみようかと思う。新年だし。

手始めに、まずは早寝早起き。

仕事が要る、地面に足をつける

田舎に行ってきた。

その町が田舎だとは思っていなかったのに、行ってみたら田舎になっていた。びっくりした。

この道はこんなに狭かっただろうか、この林はこんなに荒れていただろうか。訪れたのが冬で、どんより曇っていたのがまた悪かった。

まるで時代の風に吹き残されてしまったような、昭和や平成をこびりつかせた建物が、古ぼけて残っていた。町並みを眺めては、もの悲しくなる。住んでいる人からしたら、余計なお世話だろうが。

この町で、私はこんなに寂しかっただろうか。

さびれた街並みのなか、高級なホテルと市役所だけが新しかった。ピカピカのターミナルで次の便を待ちながら、この町には仕事が必要なんじゃないかと思う。仕事、人の流れ、経済だ。

それこそ大きなお世話か。この町で暮らすなら、きちんと自分で動かせる仕事が必要だと思う。私が暮らすなら。

寂れた町がこんなにも悲しいのは、私がここで暮らしたいと思っていたからだった。

とりとめもなく仕事について考えてみるけど、そもそも、寂れていく町に暮らしたいのはなぜだろう。

何もかもが不必要な、大きなお世話で余計な行動なんじゃないかと思う。でも多分、生きるって必要ないことの集合だ、きっと。

酒が飲める、閾値は下げていきたいと思う

「酒が飲める」歌がある。すごく幸せそうな歌だよねと車を運転する人が言っており、助手席の私はまったくその通りだと思った。

これだけハッピーな気持ちで毎日を過ごせたら、幸せに違いない。でもハッピーさの源がお酒じゃなかったらもっといいのにね、という話をした。

「キーアイテムがお酒じゃなかったら、こんなにヒットする歌にはならなかったのでは?」と言われ、確かにと思う。

お酒は楽しいし、気持ちいいもんな。

理性のタガがぽろっと外れる感じ、いらない表層が剥がれて、繊細に感情が動くようになる、あの感じ。

敏感に気付ける状態を、「閾値が低い」と呼んでいる。少しの刺激で、スイッチをONにできる状態。

お酒がなくとも、変化や揺らぎには敏感になれたらいいと思う。

少しのしょっぱさに塩を理解でき、日差しの揺らぎに秋を気付くことのできる、そういった閾値を持っていられたらいいなと。

とんこつラーメンや九州しょうゆには魔性の味わいがあるけど、澄ませただし汁だって美味しい。陽気な酒の歌を口ずさみながら、合間合間にそういった閾値の話をした。

なんで急に閾値が出てきたのかと思ったら、人がポロポロ死んでいく話を、立て続けに読んでしまったからかもしれない。

命を懸けた情熱も良いものだけど、日々は平坦に続いていくので、できるだけその中に潤いを見つけていきたいものです。閾値は気持ち、下げめに。

散歩をする、町の景色を見る

世の中にはこんなに酔っ払いがいたのか!

というくらい、町が酔っ払いであふれていた。月も半ばをすぎた金曜で、今夜は特に、解放された気持ちになる人が多いのかもしれない。

先日の散歩に引きつづき、不思議だなあと思う。今日は昨日の地続きのところにあって、人が決めた基準で現状が劇的に変わるわけではないのに、基準の前とあとで、生活は劇的に変わる。

この夏は、涼しい時間に静かな道を歩くのが日課になっていた。少なくない車通りのなか、ときどき虫の声を聞いた。今日、同じ場所を歩いているのに、景色も聞こえる音もぜんぜん違う。

有象無象のいる夜だ。楽しそうに大声で話している集団がおり、その横をストイックに駆けていくランナーがおり、座り込み煙草をふかす人やヨタヨタ散歩をしている私みたいな人もいる。

静かな夜を私は好きだったけれど、今夜、賑やかに道を歩いている人たちは、静かだった間ずっと我慢をしていたのだろうか。家や、ヤミ酒場みたいな場所でひっそりと。「ご時世だからね」なんて言いながら。

出てこられてよかったね、とも、引きつづき気をつけてね、とも思う。

有象無象が集まって、賑やかな夜になる。静かなのも好きだが、うるさいのもうるさいで嫌じゃない。楽しさにはいろんな形がある。どれも正解で、ただいろんな形がある。