海へ行く、轍のような足跡を見つける

夢中で写真を撮っていたら、たくし上げたデニムの膝上まで波をかぶってしまった。海へ行くなら濡れるに決まっているのだから、半ズボンを選べばよかった。

パイナップルが刺さったカクテルがよく似合いそうな1日だった。それから自転車のタイヤの跡かねえ、と思っていたものがヤドカリの足跡だったので、びっくりした。

10月だというのに、蝉が鳴いていた。降ってくる紫外線と熱で目玉が溶けそうな、まだまだ南国は夏だった。

帰宅後、瞬きのたび目の裏に疲れが染みて、日差しを浴びるのにも体力を使うんだなと思う。甘ったるい感じの疲労は、プールで泳いだり泣いたりした日の気怠さにどことなく似ており、夜はストンと眠れた。

散歩をする、町の景色を見る

世の中にはこんなに酔っ払いがいたのか!

というくらい、町が酔っ払いであふれていた。月も半ばをすぎた金曜で、今夜は特に、解放された気持ちになる人が多いのかもしれない。

先日の散歩に引きつづき、不思議だなあと思う。今日は昨日の地続きのところにあって、人が決めた基準で現状が劇的に変わるわけではないのに、基準の前とあとで、生活は劇的に変わる。

この夏は、涼しい時間に静かな道を歩くのが日課になっていた。少なくない車通りのなか、ときどき虫の声を聞いた。今日、同じ場所を歩いているのに、景色も聞こえる音もぜんぜん違う。

有象無象のいる夜だ。楽しそうに大声で話している集団がおり、その横をストイックに駆けていくランナーがおり、座り込み煙草をふかす人やヨタヨタ散歩をしている私みたいな人もいる。

静かな夜を私は好きだったけれど、今夜、賑やかに道を歩いている人たちは、静かだった間ずっと我慢をしていたのだろうか。家や、ヤミ酒場みたいな場所でひっそりと。「ご時世だからね」なんて言いながら。

出てこられてよかったね、とも、引きつづき気をつけてね、とも思う。

有象無象が集まって、賑やかな夜になる。静かなのも好きだが、うるさいのもうるさいで嫌じゃない。楽しさにはいろんな形がある。どれも正解で、ただいろんな形がある。

無い物ねだりをしている、やはり生活を整えたいと思う

半年ほど前は、時間が欲しいとずっと言っていた気がする。ずっと思っていた。

今、割と時間にゆとりができ、心にもゆとりができて、また別の欲しいものができた。少し困っている。どうしてこう、欲しいものってなくならないんでしょうね。

高タンパク低糖質の食事が健康にいい(頭も体もスッキリする)と聞き、さっそく試してみようと思った。鶏むね肉を低温調理してみる。家には優秀なヨーグルトメーカーがあるので、漬け置いて寝かせるだけの簡単クッキングである。

鶏むね肉、100グラム59円。
加熱すること約2時間、いつもは噛むたびギュッとなる鳥むね肉が、まるで魔法みたいにふっくらジューシーに仕上がる。

手間もお金も大してかかっていない、何という健康エコライフかしらと一瞬感動したが、見事に三日坊主で終わった。油(?)がしつこく胃にもたれて、あまり食べ続けたいと思える出来ではなかったのだ。コンビニのサラダチキンはあんなに爽やかでおいしいのに、うまくいかないもんです。

健康的な食生活を送りたい。

味付けでかき込んでしまうような、食べてすぐ眠くなる食事ではなく、食べると頭も体もスッキリして、もうちょっと歩いてみようかな、階段駆け上がってちゃおうかなみたいな気持ちになれる食生活を送ってみたい。Tarzanに載ってるような。

温かい味噌汁を食べ、付け合わせのお野菜をいただき、よく噛みよく消化し、つやつやのお肌で暮らしていく。

時間ができたので実行しない理由はないのだが、鶏むね肉も頑張って作った味噌汁も、たいして美味しくないのが大きな問題なんだよなあ。

健康的な食生活がしたい。ちゃんと計量するとかレシピを見るとか、もうちょっと自分には頑張ってほしいと思う。未来の私へ、いま私は健康的な食生活が欲しいです。

酒に飲まれて星を見る、クーポンで肉を食べる

秋の夜空は、平和だ。

散歩道の途中、開け放った居酒屋のドアからは、にぎやかな酔っ払いの声が聞こえる。圧倒的な陽気さだなあと思う。

人間の決めた緊急事態が終わり、世界は常態に戻ったことになっている。今日からは正常。線引きの力とは不思議なもので、そう言われればそうなんだろうなという感じがする。魔法みたいにリスクが消えてしまうことはないと、頭では分かっているのにね。

平和に歩き続けていると、異常のない平和さの象徴みたいな、穏やかな顔をした酔っ払いが歩道で寝ていた。秋風の吹く丘で天体観測をしています、という感じに、しかも二人並んで。

突然なんのトラウマ! と思うが、似たシチュエーションで私は知人を亡くしている。酩酊からの交通事故である。

聞いたことのある光景に動悸がした。しかし散歩中のひとりは無力だ。見知らぬ酔っ払いに声をかける勇気はない。警察に通報して注意しに来てもらおうと、近くの物陰から彼らを見守りつつ110番通報のシミュレーションをしていたら、寝転んでいたうちの一人が起き上がった。つられてもう一人も起き上がる。立った。歩いた。

…安心した。

酒なんか飲むものではないと思う。人間はお酒に勝てないのだ。理性を溶かして、いいことなんか何もない。飲まなきゃやってられないストレスからは、できるだけ逃げたい人生だった。しらふでも、穏やかな顔で夜空を見たいよ。

ほっとして散歩を続けていると、今度は違う酔っ払いが、バス停近くの弁当屋さん(の、シャッター)にもたれ、幸せそうな顔で寝ていた。

うちの近所が世紀末なのか、それとも長かった緊急事態の反動か、よく分からないがやはり酒は飲むものではないと思う。

翌日は、ホットペッパーグルメのクーポンでお肉を食べた。リクルートが気前よく配布していたクーポンだ。

私はホットペッパーにログインしてネット予約をしただけなので、実質どころか名実ともに正真正銘のタダ飯にありついたのだけれど、不思議な仕組みだよなと思う。

ホットペッパーが集客をする、集客力目当てに飲食店はリクルートに手数料を払い、その手数料で私がタダ肉を食べる。

ご時世なので、あんまり友達を誘うことはしたくないし、SNSでフォトジェニックする拡散力もなく、ただもくもくと肉を食べるだけの客。せめて口コミ紹介くらいはさせていただくので、手数料ぶん、どうかちゃんと儲かってくれよなと祈る。

相手の事情をあれこれ想像して居心地が悪くなるなら、初めからクーポンなんか使わなければいいのにと思うが、クーポンがなければそもそも外食の予定は立てなかったし、資本主義社会においては真っ当なふるまいですと弁解しながらしっかり完食した。

自分が悪人になりたくないだけでしょう、みみっちいな、と思う。でもお肉に罪はなく、とても美味しかったです。

レタスを刻む、月夜のカーテンを閉める

暖かい日に寄り道をして帰ったせいか、選び方がまずかったせいか、買ってきたレタスの中身がえらく痛んでいた。

外側から葉っぱを1枚1枚はがしていき、食べられるところだけを選んで刻む。

いつだったか、友人が「見えている世界が全てではないこと」というようなコピーを書いていた。彼女にとっては、とても実感のこもった言葉であるように見えた。私はあまり理解ができなかったので、なるほど、別の世界がいくつもあるのかと言葉を丸呑みにした。それはまだ消化できずに、胃袋のなかにある。

だいぶ時間が経ったけれども、私には相変わらず目の前しか見えていない。今は、レタスが世界の全てだった。萎びくたびれて、まな板の上で切り分けられていくレタス。外側の葉っぱをめくったら中身は大惨事だなんて、まあ。

「一枚めくってみたら」も、めくってみる前には全てではない世界に含まれていたのかしらと思う。やっぱりよく分からない。捉え方の数だけ世界があるのは事実だ。新しい世界が見たいと切望しているわけではく、久しぶりに友人と会う約束をしたので、彼女の世界について考えてみただけなんだと思う。

生きのこったレタスを、トマトと卵とで酸味の効いたスープに仕上げていただく。

部屋の窓から見える家々の、屋根にくっつきそうなほど低いところに半月が浮かんでいた。夜ごと空気が透明になり、冬が来るなあと思う。

MOFTをはがす。「ありがとう」と伝える

PCの画像

新しいPCを買った。

下取りに出すために、古いPCのリストアをした。

5年近くかけて蓄えたデータは5分もしないうちに消えてなくなり、メモリの空きをしめす棒グラフが、一気に真っ白になった。デジタルデータってそういうとこあるよねって思う。

転職したての頃からずっと使っているPCだった。一緒に働いて、ぶじ暮らしていくだけの稼ぎを生んでくれたPC。せめて、アナログな精神でセンチメンタルを感じておく。

しかし、お別れのあとも生活はつづく。私にはやることがあるのだった。

そう、PCの下取り額を上げねばならない。デジタル部分はこれ以上触りようがなく、残すは見た目が9割なので、できるだけきれいにして然るべき場所に送付するのだ。

マイクロファイバーぞうきんで、箱体をふく。エアダスターをキーボードに吹き付け、すきまのほこりを綿棒でぬぐう。ひと拭きするたびにPCはきれいに他人のようになっていき、アナログはアナログでこういうとこあるよねって思う。

ノートPCの裏側には、体に優しい便利グッズが貼ってあった。名前を「MOFT」という。PC仕事で首を痛めた私に、友人が贈ってくれたものだ。

座りっぱなしで1日じゅう顔をやや下に向けて過ごす生活を続けていたら、首周りの筋肉がガチガチになってしまい、ある日とつぜん首が回らなくなった。うなずけず振り向けず、後方確認ができないので車にも乗れない。大変だった。

そんな時期、MOFTにだいぶ助けられた。振り返ると、なんと体を粗末にしていたのか!と思う。その後、意識を高くしてストレッチポールなどを揃えたのはまた別の話。

PCを下取りに出すには、MOFTを剥がなくてはいけなかった。

ネットでは「再利用できます」という記事をちらほら見かけたけれども、そっと剥がそうとしたら爪が折れたので、力技で引き剥がすことにした。

ラジオペンチで、ぐいっと。

これが文明の力よ。

PCを買い替えて、ついでに周辺機器も新しくして、だいぶものを買ったり譲ったり、捨てたりした。じゅうぶん活用できなくてごめんねと思うものも、たくさん使ったけど他の人にも大事にしてもらってな!ありがとうな!と思うものもあった。

サステナビリティという言葉があるけれど、例えば「10年使っていられたもの」ってそう多くない。一生着られるニットは毛玉がガチガチになって捨ててしまったし、格好いいハイヒールは、田舎で暮らすにはちょっとかかとが高すぎた。しまっていたらカビが生えてしまった。

憧れて買ったスーツケースはここ2年ほこりを被っており、掃除機は先月壊れ、机の上のPCを見ては「お前ともお別れか」と思う。

新陳代謝だなあと思う。物を買って、使っては捨てていく。

まいにち顔を洗うように眠るように、消耗し回復して、壊れたらまた直し生活はつづく。買うときは高揚するし、壊れたら泣くし捨てるときは心が少し痛む。

このくり返しが生きていくってことなんだろうけれども、できるだけ納得いく物を、丁寧に長く使っていってあげたいね。

大変お世話になりました、ありがとうMacBook。

PCの画像

MOFTはどうしようか。我が家にはもうノートPCがないし、しばらく旅にも出ないからノートPCを新調する予定もないし、とりあえず保留だなあ。

相談をする、君と暮らしていきたいと思う

長く使える物と暮らしたいと、ずっと思っている。

長持ちするものは必ずしも高級品じゃなく、小学校で家庭科の授業のために買った布用の裁ちばさみがまだ現役だったりするし、父が作った実家の棚は、ネジ穴を増やしつつもう25年くらい使われている。

長く使えるものって、極論をいえば「取り替えられるもの」なんだと思う。メンテナンスできる人が存在するもの。切れ味が落ちたら刃を研いで、棚板の高さが合わなくなったら位置を変えてあげる。

パーツを用意してアンティークの時計を修理するような、カメラや楽器のメンテナンスみたいな。不具合が起きても、全体のうち一部を替えてあげれば使えるようになりますよ、という。

ラーメンの秘伝のスープみたいだと思う。これがあるから替え玉をしても美味しい、もちろんスープだけでは成り立たなくて、替え玉と合わせることでラーメンになるんだけど。

取り替えの効かない単体なら、買う→使い終わるの前後に、納得感があるといいなと思う。

ページがいっぱいになれば新しいKOKUYOのノートを買うし、春がきたら新しいユニクロの服を買う。そういった前後に、何かしら、一方的な自然からの搾取ではありませんよという証明があるとすごく救われる。トレーサビリティというやつか。

メンテナンスできるもの、替えがきくもの、もっといえば誕生から終わりまで、ちゃんと面倒を見てあげられるもの。要するにたぶんMieleなんだけど、20年分のお買い物はちょっと重いな。

使い捨ての一方的な感じ、利便性と引き換えに、捨てて良いモノの価値をすごく低く見積もった感じがあまり好きではない。利便性の価値が私にとってはあまり高くないというだけなので、どこかで引き算ができないかと考える。

利便性を我慢できる範囲で削り、本来使い捨てられるはずだった物の使用回数をちょっとだけ増やす。う〜ん、なら初めからちゃんと使えるものを選べば良くないか? 一人で考えてもしっくり来る答えが見つからなかったので、職人さんに相談に行く。

職人さんはモノの価値を高めるポジションにいるので、相談した結果としてはより迷子になった。前述のとおり高価なものが全てではないし、Mieleでは重すぎるし、ちょうどいい塩梅って難しいんだなと思った。

大事にできるものを探す、そして君と暮らしていきたいと思う。ロマンチックだけど難しいことだ。

スーツケースを磨く、陸マイルを数える

ここ2年ほど、飛行機に乗っていない。すっかり地に足をつけた生活に馴染んでしまった。

飛行機に乗り、知らない土地に行くのが好きだった。馴染みのない天井を見上げ、寝起きの頭で「ここどこだっけ?」と考えたり、初めて入るごはん屋さんで、勘を頼りにメニューを決める時間がとても大切だった。

旅先での予定は、空白。旅ではなく、ただの移動だったのかもしれない。名所もショッピングセンターも回らない、怠惰な移動だ。

駅前の地図で乗り換えを調べ、調べたけど面倒になって結局ホテルに引きこもることもある。ひどい時はファミマのおにぎりを食べるけど、北海道にはセイコーマートがあるから、無駄旅の罪悪感がちょっと薄れる。行って、ダラダラ過ごして、終わり。

移動の思い出は別に誰にも話さないしお土産も買わず、飛行機を降りたらヌルッといつもの生活に戻る。あっという間に戻ってこれる生活がちゃんとある、旅先で孤独を感じても、本当のところ一人ではないと知っていたから、知らない場所でわざわざ一人になる時間が好きだったんでしょうな。

生活が変わり、旅行に行く代わりに、ネットを見ない時間がわざわざ作っていた。要するに、私は周りの人達の「いま何してる?」を摂取しない時間を必要としていたらしい。繋がりをいっときオフにするための移動、移動というか逃避に似ている。

去年と今年、スマホを機内モードにするだけの、とてもリーズナブルな移動をたくさんした。体はどこにも行っていないので、気持ち的には移動、というだけの話だけど。空を飛べないぶん陸でお買い物をし、クレジットカードにマイルが貯まっていく。

ほこりを被ったスーツケースを拭きながら、落ち着いたらまた飛行機に乗りたいと思う。逃避先というか休憩場所を探している、いつも。やっぱりお土産は買わないだろうし、服を着替えてお出かけすることもそんなにないだろうし、今度は、もっと小さなかばんでも大丈夫かもしれない。