逃げないで、二月

変化量の閾値というものは案外大きくて、降り積もる毎日をサラサラと見逃してしまいがち。

積み重ねることでしか辿り着けない場所というのが絶対にあって、サラサラしている場合ではないと思うのだけれど、気付けば2月も半ばを迎えてしまい気ばかり焦っています。

逃げないで、というのは時間のかたまりへの呼びかけではなく、刻一刻流れる今への懇願に似ている。今日もちゃんと生きよう。

またひとつ年経ること

新年一日目を山で過ごした。どこもかしこも混んでおり、みんな元気だなあと思った。カメラを持って過ごしたものの、どうもピントが合ってくれない。

祈りの場所がいくつもある山には、「ここを潜れば新しい人生が拓かれる」といわれるパワースポットがあった。もちろん大喜びで潜ったが、悠久の時を過ごしたであろう大木と巨岩に囲まれていると、一発逆転的な幸運という響きには、あまり説得力がない。

植えた木が一晩で巨大になることはなく、土くれは明日も土くれのままだ。ソテツの木肌にひし形が刻まれているのはその一つ一つに葉が育っていた名残であるし、クモの巣は一本の糸を張り巡らせてできている。

一発逆転、それは天変地異だ。ほとんどの場合、結果には原因があり、明日は今日の地続きにある。ゆっくりと、時間をかけてしか育まれない山を見ていると、そう思う。

また一つ年を経て、目まぐるしく移る日々に区切りがついた。始まったそばから今日の時間が勢いよく過ぎていったが、きちんと育ったことを実感できる二〇二四年にしたい。

帰路で緊急地震速報を聞く。能登半島で最大震度7、暦や生業を問わず、私たちは地上で過ごす生き物であることからは逃げられないのだなあと思う。多くの人が無事でありますように。

軽やかなカメラと231210のうるし

先日、カメラを置いて旅に出たところ驚くほど快適だった。一キロちょっとの重量を肩に負い続けるのは、自覚していた以上にストレスだったようだ。荷物が軽くなると足取りも軽くなる。いい気分でiPhoneのカメラアプリを使い倒したけれど、「いい写真」をPCで見ると、画面の粗さに涙が出た。

重くてはいけないけど粗いのも切なすぎる、ということで、サブ機にキヤノンのKiss X10iを迎えることにする。

届いた日からほぼ毎日持ち歩いて、そういえばシャッターを切るのは楽しかったということを思い出す。構える前の「よっこいしょ」がなくなると、軽々しくカメラを取り出すことができる。浮かれポンチな軽やかさだ。

レンズは標準レンズ、画質はキヤノンだなあという感じがして、ピントも綺麗に合うし速い。大きいモニターで見ても、データを印刷しても粗さに悲しくなることはない。それ以上の良し悪しは実のところよく分からないが、お値段以上に楽しく撮影できている。

初めて買った一眼レフカメラもKissシリーズで、確かX7iに40mmのレンズが付いていた。

ズームできないレンズがあることを購入後に知り、設定をいじらないと真っ暗だったり被写体がブレブレの写真になってしまうことも、購入後に知った。F値だのISOだのについては学生時代にさんざん習ったはずなのに、まったく教育を無駄遣いしている。

その後、写真好きが集まるコミュニティにご縁があり、「撮影は楽しいもの」と自分に刷り込むことができてよかったと、振り返って思う。

久しぶりにカメラが軽いし、贅沢にも一眼レフを二台持ちする大富豪になったので、定点動画と静止画撮影を併用する機会を増やしていきたい。

そういえば7月に、「アリが漆の新芽にたかっているが、アリは漆のかぶれ成分にやられることはないのか」といった日記を書いたのだけれど、漆にはどうやら薬効があるらしく、もしかするとアリは体にいいものをきちんと理解しているのかもしれない。

この頃の漆は、葉が落ちてしまって枯れ木の様相。間違った世話をしてしまったからか、冬だから冬芽という形態になっているのか、雪国の植物を南の島に連れてきてしまい、辛い冬を過ごさせていないかだけが不安である。

12月のとんでもない晴天

時間が育くむもの、風化していくもの

人混みを避け山奥を訪れると、ちょうど紅葉の時期でこちらも大混雑していた。蛇行する山道をひしめく乗用車に混ざり、レンタカーのハンドルを握る。狭所で行き違うために時々サイドミラーを畳みながら、歩行者や車が洗われる芋のようだなあと思った。

山を切り拓き敷かれた道の脇には、とんでもない巨木が多数聳えていた。この山が育つのに、一体どれだけの時間を要したのだろうと思う。時々目に入る蛍光色のリボンや、巨木の横にちょろりと生える頼りない若木を目にするたび、山の世話をしている人が描いているであろう、〇年後の山の姿に考えを巡らせるなどした。

木々の合間を車が走る。走るというにはトロトロしすぎた速度ではある。巨木と人間が並ぶと縮尺がおかしくて、両者は違う時間軸の生き物なのだと改めて感じる。

10月末、「燕三条工場の祭典」に行ってきた。新潟の燕市・三条市にまたがる、金属加工で栄えているエリアで開催される、町工場のオープンファクトリーが目玉のイベントだ。

金物の関連製品を製造している工場で、「昔はこの辺の大きい工場からの発注が多かったけれど、今はみんな海外に(発注が)行ってしまった」という話を聞いた。

一円でも安い生産コストを追求した結果、工場が海外に移った、技術が廃れた、若者は都会へ行き、後継者がいなくなった──という話は、現代にはありふれたエピソードなのだろうと思う。業態をより時代に沿ったものにしていくといった観点では、むしろ普遍的なエピソードだろうとも。

非合理は市場に淘汰され、合理的なものだけが残っていく。それは私たちの暮らし、消費者のニーズに合わせた、現代的で自然なことだ。いっそ健全なサイクルとも言える。

燕三条エリアでの取り組みは個人的にも楽しく拝見・体験しているが、今日の日記の主題ではないため、それについてはまたいつか書きたい。

合理を追い求めるからこそ売り上げが立つ反面、補助金を注ぎ込んでようやく守られる遺物や自然がある。史跡や寺社仏閣は文化・歴史などと呼ばれ、一見「合理的な市場」からは遠い存在のように思える。入山料の発生しない山もまた然り。

非合理を成り立たせるためには、並走する合理からの分け前によって、十分なリソースが確保される必要がある。

かつての幕府は年貢で荘厳な寺社仏閣を建立し、行政は税金で文化遺産を補修して山を整備し、私たちは働いたお給料でおやつを買ったり自宅を建てたりする。(荘厳な寺社仏閣のおかげで、リーダーの求心力が高まったり観光産業が栄えたりすることがあると思うので、一概に非合理とは言えないかもしれない)

寿命に向かい無秩序に朽ちていくのを、食い止め少しでも長らえさせようとする働きかけ、または混沌を整える作業、あるいは純粋な幸福のための行動、そういったふるまいの全てには原資が必要だ。

お金であったりマンパワーであったり、私たちが持ちうる原資──リソースには必ず、上限がある。寝て起きて働き、ご飯を食べる。寝食がなくては働けないし、1日は24時間と決まっている。

昔、栄えた町並み。船団が停泊していた漁港や地場産業が盛んだった地域で、鉄骨が剥き出しになった建物や穴の空いたトタン屋根を目にするたび、「おお、経済との戦いの痕跡……」と思う。

町やお屋敷の規模が大きいほど、過日の生み出すノスタルジーはきつい。時代の流れとともに合理的でなくなった産業が淘汰されていく、自然で残酷な流れを突きつけられたとき、栄えた「かつて」に思いを馳せては切なさに胸を震わせる私がいる。一方Amazonでは、1円でも安い商品を買うわけだけれど。

朽ちていく非合理と、保護される非合理がある。保護できる非合理と、保護できない非合理がある、といえるかもしれない。

合理のもたらすリソースを欠いたとき、非合理は簡単に淘汰される。文化的にも豊かに暮らせるに越したことはないけれど、腹が減っては戦はできないのである。

いつでも合理が正しいわけではない、と信じたい。人間こそ非合理の塊のようなところがあるし、寄り道した先で一生忘れられない経験をすることだって、きっとある。

しかし、誰がどうやって非合理に対するコストを負い続けるかを考え実行に移していくのは、合理の仕事だ。

ゆるふわと心地よい妄想ばかりして過ごせたらいいのだけれど、理想に辿り着くには道筋が必要なのだなあと思う。

美しい山景色。自然だけでも、人の力だけでも生み出せない風景を眺めがら。

液タブを買う、そしてQOLが上がる

液タブを買ったら解像度が爆上がりして、色々なモチベーションが上がった気がする。買い物の効用、その真骨頂はハードすなわち機能面ではなくソフト面、私の感情にあらわれる。やる気に効く、その効用プライスレスである。

先日読んだ小説で「デート先に歴史博物館を選んだ恋人」が女心を知らない朴念仁扱いされていたのだけれど、デートで歴史博物館、いいじゃん……と思ったところで、なるほどだから私の作るものはマイナーなのだ、という天啓に似た気付きを得た。

近所の私立美術館の年間来場者数は数万人、県内の水族館の年間来場者数は200万人超、みんなデートで博物館や美術館には行かない。アトラクションがあるところに人は集まるのだ、と思う。

みんなデートで博物館や美術館には行かない。

嫌われる勇気と嫌われないための事前説明

見積もりはシビアに、というのが最近の信条である。

サービスでやっておきますね、というのは簡単なのだけれど、心遣いのつもりだったものが「〜してあげたのに」という恨みに似た感情に変化してしまうと、精神衛生に多大な悪影響を及ぼす……みたいな事態に陥ることが多々ある。有限なリソースのうち、私にとって最も大切なのは気力なので、気力の源を傷つけないよう、これはフェアなやり取りだったと自分を納得できるようにしておきたい。

平たく言うと、仕様変更には追加のお見積もりを。
譲歩には対価を、みたいなケチくさい話だ。

フェアなやりとりには、十分な事前説明が欠かせない。「聞いていない」は納得感を著しく損なう。評価は絶対値ではなく期待値から相対的にはじき出されるもので、「聞いていない」には「事前にご説明差し上げたとおり」を返せないと、積み上げてきたものが簡単に爆破されてしまう。

言う必要があることは言わなくてはいけないが、どんどん長くなっていく事前説明に、この頃はうんざりしている。しかし、書類や長文のメールだけでは解決できない問題はそこらじゅうに山積したまま。説明はコストだ、そしてコミュニケーションはパワーだ。

水場に誘った馬が水を飲まなかったからといって、その責を私が負う必要はないが、馬が死んでしまうと不利益を被るのは私なので、水を飲んでもらう努力は力一杯必要なのであった。

合意の形成こそがお仕事の肝、何をするにも胆力が必要な世の中である。嫌われたくはない。

愛される秘訣はGIVEとよく聞くので

ここ最近のふるまいについて、ひとり反省会を開いている。

8月はやたらと余裕がなく、メールを1通返信するにも切羽詰まった文面になってしまい、ちょっとした仕様の変更に右往左往するなど、文字どおり余裕がなかった。

困った時の先人の知恵ということで、愛され営業本のページを繰っている。こうすれば愛されます♡ といったノウハウリストを期待して購入した本であるものの、なんだこれは、聖人のあらわした書籍か? といっそ混乱している。

愛されるには他者に対してどこまでも寛容な聖人である必要があり、聖人でいられるだけのゆとりや価格設定が必要なのかなぁとふんわりした感想を得た。

仕事におけるGIVEと搾取の境目、そのサービスは基本料金に含まれますか? 仕様の追加への柔軟な対応、メールをより短時間で送ることのできるコツ、そういったことで頭を悩ませているうちは、愛とはほど遠い仕事をしているのだと思う。

愛されたいが愛が何かはわからない。しかし実績には愛が関係しているようで、それが見えるまでもう何度か読みたい。真面目か。

大脱走

カメラを担いで出てきたはいいけれど、お盆中に史跡など巡り、変なものが写っても嫌だなあとレンズキャップを外すことはついぞ無い日々を過ごしていた。腰骨にカメラ本体を打ち付けては痛い思いだけをする。

ウークイの日、親戚回りをするはずが直前で逃亡してしまった。逃亡後も代わりにやりたいことはなく、空港のロビーで大人しく仕事をしている。つまらない大人である。

「三つ子の魂百まで」という。そういえば私はよく逃げる。いちばん古い思い出は、幼稚園生のときに園を脱走して自宅に逃げ帰ったこと、もう少し成長して小学生の頃、嫌いな先生がいたので音楽の授業をさぼったこと。

成人してからは、嫌な飲み会からそそくさと抜け出すこと多々。お代はきちんと払ったし、接待要員に徹したときの私は優秀だったので、社会人として恥ずかしいことはしていないと思う(思いたい)。

一方で物理的に逃げられない環境ではストレスで体調を崩すことがあり、あれは社会人として難のある状態だった。先日、知人から「土日にも仕事を入れたら、小学生の子どもがストレスで体調を崩すようになった」という話を聞き、そういえばここ五年くらい、私自身はメンタルに起因する不調が起きていないことに気付く。

環境をがらっと変えることができたのは、長い人生におけるとても良いターニングポイントになったと信じたい。

「逃亡」を仕事に置き換えると、いつばっくれるか分からない、怖くて使えない外注先のようなふるまいだけれど、親戚回りに限っていえば、まだ自分の家族を持たない両親のオマケとしての参加で、私が抜けても大勢に影響はなかったため許してほしいと思う。

逃げた先には今のところ、安心できる自宅がある。

逃げられるうちは逃げればいいと思うが、そうなると胆力や打たれ強さみたいなものが育たない気もしている。我慢して得られるものは確実にあると思う一方で、それは私が手に入れたいものだろうかとも思う。人からの信頼や気まずい空気の和ませ方、お尻がかゆくなるほど逃げたい種類の仕事への耐性などなど、格好よく言えばGLITの四文字でくくられるものたち。

「環境を変える」とは、ある環境からの移動、捉え方によっては逃げである。全てに踏ん張りたいとは思わないが、踏ん張った先に何があるかは踏ん張れた人にしか分からないので、取捨選択の予断は難しいのであった。

夏の便り かめーかめーと言うおばぁ

漆の木。気付けばすくすく育っている。新しい葉はツヤが強いものとそうでないものがある。根本に分岐(?)ができたので、剪定してあげる必要があるのかもしれない。

遠方にマンゴーを送ったところ、夜中に「とても美味しい」と連絡が来た。

あまり伝えたい近況も雑談のタネもなく、ただ受け取ってくれた人が喜んでいるのを私も嬉しく読んだ。贈答用のマンゴーを買ったつもりで、友人のリアクションを買っていたのかもしれない。

祖母はこれが嬉しくて「もっと食べて」と繰り返していたのかもしれない、と思う。そう書くとやたら上品な響きになってしまったが、実際のつぶやきは「あ〜〜だからオバーはしょっちゅう『かめーかめー』してたわけ」になる。

これは塩害で弱ったのかもしれない漆の葉。シワシワしている。

230719のうるしとギリシア人の物語

うるしの木は元気、ただし生育状況の悪かった小さな個体は枯れつつある。それを横目に、いかんせん日々を流して過ごしがちです。

先日、中くらいの木に芋虫が一匹だけ付いていましたが、気付けばいなくなっていたので鳥に食べられてしまったのかもしれない。

やたらと動きがぎこちない個体で、うるしの葉を食べると虫の健康にも悪いのではと思ったものの、移してやれる青葉もないので、やむなし。

芋虫のほかには、新芽にアリがたかっている。アリたちはとても元気。うるしの何かしらの成分を元気に摂取しているけれども、本当に元気なんだろうか。虫ごとながら心配している。

1、2ヶ月に一度肥料をやって落ち葉を捨て、枯れてしまった細い枝をときどき払いながら気付けば7月を迎えた。

肥料には、ダイソーで買ってきた鶏糞をスプーン一杯ほど与えている。正しい施肥ができているかどうかは知らない。葉っぱは元気なままなので、きっと大丈夫なのだと思う。

肥料を土の上にそのまま置くとコバエと小さなアリと白カビが発生することが分かったので、少しだけ土を掘った穴に肥料を埋めている。スコップ代わりに、試し塗りで作った漆塗りのスプーンを使っている。謎に単価の高い土仕事ツールである。

作業をしながら「ギリシア人の物語」を読んだり聞いたりし、作者のギリシア男性評にとても血の通った人間を感じた。さまざまな時代に、さまざまな常識やそれに沿った暮らしがある。さらに人間関係があり、政治があり、社会だなあと思う。

古代ギリシアの子供らは、教科書にホメロスを読んでおり裸体で健やかに運動していたのだ、というくだりがとても好きだった。なんたる文化度。