「朝のふきげん」を直す

朝の私は、人に優しくできない。

朝、何かにつけて他人にイラッとしてしまうのは、寝起きの体調のせいかしらと思う。

大抵の場合、昼ごろには心が2回りほど広くなり、朝の行いを反省している。

反省にはカロリーを使う。自己肯定感が下がり、心がすり減る。

起床してからの経過時間なのか、人に会った回数か、不思議と昼には心が広くなっている。そして、「ヤダ、私の態度、ひどすぎ……?」と思うのだ。

人に会う時は、いつも昼のテンションで過ごしたい。

朝の不機嫌タイムを周りにぶつけてしまわないよう、今年は朝早く起きることを習慣にしてみようかと思う。新年だし。

手始めに、まずは早寝早起き。

満たすべきではなかったと思う、年が明ける

腹を満たす、舌を肥やす、目を養う。
自己研鑽や成長は「よいもの」とされがちだけれど、一度満ちると、不足が気になるようになってしまう。

満たされていない状態は、つらい。
美味しくない食事やつたないあれこれを摂取するのは、つらい。

完璧な正方形だけが美しいわけではなく、欠けやゆがみが当たり前にあるのが当たり前なのだと思う。正解は一つではない、完全は唯一の価値じゃない。思っているのに、許容できない。

心のこもった料理が美味しくなかった。もらったプレゼントがダサかった。そんなことは考えたくなかったと思う。

満たされる経験を重ねるたび、基準値が上がり許容範囲は狭くなる。もしかすると自分を満たすべきではないのかもしれないし、成長と称して世界を広げるのは「幸せ」ではないのかもしれない。

研鑽と称して「よいもの」を知るたびに、不足ばかりが目についてしまう。

整えられた完成形を、正しいものを、レベルの高さを。

そんなことは考えたくなかった。
来年はもう少し、つたなさを含めた物事を愛せるようになりたいと思う。年が明ける。

仕事が要る。そしてご飯を食べねばならない。

その土地に住むためには、その土地の仕事が要る。リモートワークもいいけど、生身の人間と雑談できる環境を作るには、その土地で仕事をするのが手っ取り早いと思う。コスパの問題が解決できるなら、店員さんと顧客の関係でもいい。

他人と接触する必要があるシチュエーションを作る。接触は、日常的に反復でき継続性があること。先述のとおりお店でもいいんだけど、仕事がいちばん効率的だと思う。続けるとご飯が食べられるし。

観光地の悪いところは、「観光地価格」と「地元価格」が分かれてしまっていることだ。サービスの利用は、教育に似ている。それも無意識の、刷り込みに近い教育だ。

私たちはサービスを利用し、お金を払う代わりに価値の提供を受ける。観光地価格の商品のユーザーでない地元の人は、観光地価格のサービスを知らない。知らないものは提供できない。

土地固有の観光資源を潤沢に使ったサービス。提供側にも享受側にも回れない地元の人は、いったいどこに行けばいいんだろう? サービスに触れる環境を整えることも、教育だと思う。

みたいなことを考えて、しかし私にも知らないことがたくさんあるぞと思う。仕事が要る、作り方は知らないけど。大人なので、セルフ教育が必要なのだと思う。

仕事が要る、地面に足をつける

田舎に行ってきた。

その町が田舎だとは思っていなかったのに、行ってみたら田舎になっていた。びっくりした。

この道はこんなに狭かっただろうか、この林はこんなに荒れていただろうか。訪れたのが冬で、どんより曇っていたのがまた悪かった。

まるで時代の風に吹き残されてしまったような、昭和や平成をこびりつかせた建物が、古ぼけて残っていた。町並みを眺めては、もの悲しくなる。住んでいる人からしたら、余計なお世話だろうが。

この町で、私はこんなに寂しかっただろうか。

さびれた街並みのなか、高級なホテルと市役所だけが新しかった。ピカピカのターミナルで次の便を待ちながら、この町には仕事が必要なんじゃないかと思う。仕事、人の流れ、経済だ。

それこそ大きなお世話か。この町で暮らすなら、きちんと自分で動かせる仕事が必要だと思う。私が暮らすなら。

寂れた町がこんなにも悲しいのは、私がここで暮らしたいと思っていたからだった。

とりとめもなく仕事について考えてみるけど、そもそも、寂れていく町に暮らしたいのはなぜだろう。

何もかもが不必要な、大きなお世話で余計な行動なんじゃないかと思う。でも多分、生きるって必要ないことの集合だ、きっと。

時間が溶ける、バーチャルな友達とつながる

友人に「今度そっちに行くよ」と言うと、「何年ぶりかな?」と聞かれる。

数えてみると、丸2年ぶりだった。

よく遊んでいる気がしていたけど、あの思い出やあの会話は、すべてネット上の出来事だった。びっくりした。

飛行機に乗ればすぐにだって会える。アプリを開けば、いつでも話せる。近い気がしていたけど、2人してとても遠い所にいた。

それでも2年もの間、まめにコミュニケーションが続いたことに驚いている。「私たちバーチャルな関係だったのね」と言い、二人して笑った。

バーチャルでも友達でいられる。リアルで顔を合わせたとして、別に手を繋ぐことも一緒に寝ることもなく、彼女とは、画面越しのと全然変わらない会話をするのだと思う。

友人に会えるのは嬉しい。会うことの意味って何なんだろう。物理的な距離が近づいたとして、交わす情報に劇的な変化はない気がしている。

今日は久しぶりにペンタブレットを起動する。気付いたらこんな時間になっており、1日が短すぎて、焦る。

寒くて震えている、髪を伸ばそうと思う

家の外で仕事をすることが増えてしまった。

しばらく移動することはないと思っていたので、ノートパソコン含め、お出かけグッズを手放してしまった後だというのに。自分のやりたいことなので致し方なく、再び環境を整えることにする。

「スマホがあれば仕事ができる」ってホリエモンが言ってたけど、スマホのみで一泊二日を過ごすのは厳しかったので、まずはノートPCを購入したい。

あと、かばん。

1 1泊分の着替えが入ること

2 一眼レフのカメラとレンズが1本入ること

3 三脚(折りたたんで40センチ位)が入ること

4 B5サイズのノートが入ること

5 フェイスタオルが1枚入ること

6 ノートPCかタブレットが入ること

7 外付けのマウスとキーボードが入ること

を、満たすかばん。

肩が軽い生活にすっかり慣れてしまい、本当はタブレットやノートPCは持ち歩きたくない。1キロ未満の、薄くて軽いPCを探そうと思う。そしてキーボード類は有線がいい。少し嵩張るし格好悪いけど。無線はまだちょっと遅いことが分かったのが、おうち時間の収穫だった。

というわけで、ずっと気になっていたミレストのかばんを巡回している。
カメラまで詰めてしまうには、ちょっと小さいかなあ。

ステイホームからずっと髪を短くしていたのだけど、再び外に出るようになって、冬が寒いことを思い出した。

来年は髪を伸ばそうと思う。暖かく、軽く、また色々な所に行けたらいい。とても浮ついている。

生き返る、山について考える

忙しかった。やっと一息つけた感じがする。生き返った。

ここのところずっと山について考えていて、「木を育てたい、山を手入れしたい」という気持ちが脳内を駆け回っている。

山が欲しい、木を育てたい

木は勝手に育っていくので、私が手をかける必要はないんだけど、手をかけたいと思う。
なんだろう、エゴかね。

とはいえそもそも、地元の植生も木の種類も全然知らないので、郷土の資料を探し歩くなどす。

忙しいのも楽しいけど、知りたいこと調べるのもとても楽しい。生き返っている。

期待値も下げていきたいと思う、ゆっくり寝る

塩せっけんなるものをいただく。塩、石けんにまで混ぜてきたか! と思う。

無添加で、石けん素地と塩を絶妙なバランスで配合することにより完璧な泡を作り出せるようになったらしい、ぴかぴかの石けん。

ボディーソープが切れたので、さっそくお風呂場に持っていく。使い心地は何というか、硬かった。

泡立てネットで一生懸命泡立てるけどどうしても泡がへちょっとして、もっちりモコモコになってくれない。

何も入れないと、石けんの泡ってこうなるんだな、ということを学び、同時に普段のもっちり泡には我々すごく甘やかされているんだと思った。

化学薬品を使っていません! と言われると心強い気がするけど、もっちり泡だってすごく気持ちいい。

無添加とちょうどいい添加物、どちらが肌に正しいのかを、実のところよく分かっていない。自分のことをちゃんと知るのは、案外難しいことだと思う。

ゆるい泡を少しなめてみたら、そう言われてみればそうかな…くらいのほんのり塩味がした、気がした。

今日はヤマトの配達を楽しみに待った1日で、日中ソワソワしていたら時間がえらくゆっくり過ぎた。

配達時間を指定すると、どうしたって「時間に間に合ってないじゃない! 配達が遅い! ムキー!」みたいな心理に陥ってしまうことがある。

未熟者め、もっと心にゆとりを持てよと自分でも思うけど、「いま向かってます!」と言われたら期待してしまうのが小さな人間というもので、期待しないでいることはとても難しい。

本当は、宅配便の配達予定なんかは見ないようにするのが正しくて、荷物は忘れたころにポンと届いて予想外なハッピーを浴びるくらいが、心身穏やかでいられるコツなのかもしれないと思う。

人が何してるかを知らなければ、期待しなくて済むもんな。でもそれはそれで不健全な気もする。「君のこと考えたくないから、君については知りたくない」? うーん。

そんなことを考えながらヤマトさんから荷物を受け取り、いい感じの布を譲ってもらったので針仕事のお願いをして、今日はゆっくり眠れそうな土曜日の夜。

いい週末です。

磨いていく、そして繕う

あ! と思い花の写真をシールに出力したら、とても可愛くて幸せな気持ちになったの巻。

大きなものがなかなか進まないので、せめて小さなものを積み上げた週末でした。

かくかくしかじかでリサイクルショップに行く。引っ越し屋さんを母体にしたお店だからか、生活感あふれる家具家電・事務所を引き払って出てきました、という感じの事務用品が並ぶお店だった。

店内は静かすぎて落ち着かない。古いものの放つ変な臭いをかぎながら、目当てのものを探した。とても緊張した。図書館の棚に囲まれた通路を一人で歩いている時の感覚に似ている。

日焼けした領収書やら酸化して白っぽくなった金物やら、誰にも使われなくなったものが、時間を吸いこんで少しずつだめになっていく。おお時間が死んでいく、と思った。

たくさんのものが作られるということは、作られただけのものが処分されるということだ。

「処分」と大雑把にくくっているけど、こうやって、リサイクルショップの澱んだ空気のなか朽ちていくのも、ものの一生の終わり方なのだよなと思う。

ものの気持ちを考える。誰かにまた使われる日を夢見ながら、リサイクルショップの棚に鎮座し続けている長い長い時間。

切ないなあと思うが、ものにロマン主義を適用するのもどうかと思う。切なさは単なる受け手の感覚で、ものはものでしかない。

そもそも、「お店に行く」「品物がある」ということ自体が、ワンチャン買ってもらうために膨大な量の品物を作り、運び並べて誰かに届けば生きられる! みたいな経済活動のあらわれであり、私が知らなくとも見えておらずとも、運良く買われたり買われないまま朽ちていく品物が存在することには変わりがないのだろうな。

陳腐だけども便利さにはやはり別の側面があると思う。当たり前に、色んなものに一つではない理由や意図がある。なるべく立体的に、ものごとをとらえていきたいですね。

結局、必要なものは見つからず、Amazonで買おうか迷っていたら知人からまるっと譲り受けることになった。

嬉しいなと思いながら、本当は違うことを日記に書く予定だったんだけどな…と思いながら、日付が変わってしまうので、本日閉店。

セミが鳴く、ユニクロのニットを買う

朝晩すっかり冷えるようになったのに、田舎の山ではまだセミが鳴いています。びっくりします。

小さな散財をしました。

作ったものをちょっとの間置いておく棚か作業台が欲しいと、ずっと思っていました。

欲しい、でも別に1万円出すほどの欲しさではない。だからといって、量販店で売られている、7,000円のテーブルを買う気分にもなれない。

状態の良い中古の品が、5,000円くらいで手に入らないだろうか。

そんなことを考えながら過ごしていました。リサイクルショップを巡ってみても、これだと思うものは見つかりません。

というのが先週までのことで、今週、ジモティでいい机を見つけました。そんなこんなで譲っていただき、私の作業部屋は今とても快適です。

お値段、1,000円なり。金具に少し不具合があったので自力で直して、でも金具以外はほぼ新品です。アメージングなことです。

それから、冬になるので新しいニットを買いました。秋の終わりの小さな散財、ふたつ。

もう、寒くなっても大丈夫です。