99円のアボカドとボブおじさんの裏庭

陶芸家の口から「土がなくなる」と聞く機会が増えた。木材が高騰して困るという声を、建築のみならず工芸分野の人からも聞く。

資源の再生産スピードと消費の速さが釣り合っていないとき、資源は枯れる。当たり前のことだが、想像力の及ばないことが多々ある。

大規模農園の開発によって森林が急速に失われ、それにともなう災害──山崩れや河川の氾濫、からの地下水の枯渇など──が増えている。例えば南米のアボカド農園。

99円のアボカドを売るために山を拓いたところ、地盤がゆるみ山が崩れ、建物や人に被害が出ることがあるらしい。

野菜売り場のアボカドからは、資本主義の力強い脈動を感じる。土地代、肥料代や農薬代、耕作機械、間伐や間引きや収穫、運搬、卸、流通そして小売、さまざまなコストが乗った果実をワンコイン以下で買える、ものすごい仕組みの結晶だ。

遠い外国で作られたアボカドが、海を渡り、世界のどこかの台所で、料理されたり真っ黒に変色して捨てられたりする。

その裏側でボブおじさんちの山が崩れたりするわけなんだけれど、スーパーでアボカドを選ぶとき、地球のどこかの山について想いをはせることは、まずない。

原因と結果の距離が遠くなるほど、私たちは両者の関係について無頓着になれるわけで、アボカドだけでなく身の回りのありとあらゆるモノについて、暮らしと資源の間には大きな隔たりがある。

美しいパッケージに囲まれて、骨の髄まで「消費者」が染みついた──それが当たり前なのが気持ち悪い。

この商品を手に取ることで、私はどこかの山のふもとの、誰かの家を壊しているかもしれない。この商品を手に取ることで、誰かの暮らしを豊かにしているかもしれない。

いずれにせよ相手の顔は見えず、私が99円ぽっちの消費活動を行ったところで、結果に大した影響を及ぼすことはできない。消費の責任はロット数で割られ、重みがわからないようになっている。

やっぱり、気持ち悪い。無頓着であれば覚えることのない違和感ではあるのだが。

違和感に対して、どんな行動を取るのが正解かは分からないけれども、文明の民は今さら狩猟採集生活には戻りたくないのであった。

資源と消費の関係性と、その間に介入する私の行動について、概念上のボブおじさんに思いを馳せながら。