近ごろは、うるしbotと化した日記だった。ずっと文章を書くことにためらいがあったので、しょうもないことを書き連ねる、リハビリのような時間を過ごしていた。botはbotなりに役割があってよかった。
botをしながら、同じ問いが頭の中を回っていた。まだ使えるものを殺してしまうのは、果たして悪いことだろうか? 殺す、というと物騒である。実のところ、手直しして使いたい器があるという、ただそれだけなのだけど。
手元に、割れた平皿がある。割れていないが何年も仕舞い込まれていたコップもある。これらを漆で継いでしまいたい、と思っている。透明なグラスのつるっとした肌に、金色の線を走らせると綺麗なのではないだろうか。一度割って綺麗にお直しできれば、死蔵されていたグラスも活躍の場を取り戻せるというもの。でも、アップサイクルを銘打って飾りつけるために、新品同様のグラスを割ってしまうのは、許されることだろうか。
わざわざ「わざと割った」などと言わず、ただ可愛くしたいからそうしました、と心の中だけで唱えれば、きっと誰にも咎められはしない。でも、グラスを割ろうとしたときに引っかかる、罪悪感はいったいどこから来るんだろう。
例えば、長すぎるズボンの裾を詰めるように、残ったカレーで翌日のカレーうどんを楽しむように、思い出の着物をリメイクするように、確かにまだ使えるものではあるけれど、使われなかったコップを割ってしまうのは、悪いことだろうか。
理性や願望は、可愛いものを使いたいなら割れば? と囁く。情緒は、割るなんてコップがかわいそうだと言う。ものづくりをする友人に聞くと、他人の仕上げた解釈に自分の解釈を付け加える、それは戦争だ、という会話になった。名も知らない、工業的なコップを生み出した誰かに私は戦争を仕掛けようとしていたらしい。
ガラス、二酸化ケイ素のかたまりであるコップを手に取り考える。自然には割れる気配のない、仕舞われ誰にも使われてこなかった君を、私は割ろうとしている。ただの化合物に「かわいそう」も何もないと思う反面、ガラスの神様のような、またはトイ・ストーリーに出てくるおもちゃたちのような意志が存在したとき、確かにコップは「壊されるかわいそうな存在」になるのだと思う。しかし工業製品に心を寄せていくと、現代生活はままならない。だからと言って無感動に割り切れるほど、ハードボイルドにもなりきれないが。
キーボードを叩くわずかな振動で、机に飾っていた花から一枚、花びらが落ちた。生きていた花を計画的に刈り取り、花瓶に移しては死んでいくまでの過程を毎日眺める。これもまたグロテスクな行動だと思うのだけれど、花はきれいだ。きれいな花を求めて、人々は数千億円規模の市場をつくる。売り買いを経て死んでいく花を見て癒されたり心を満たしたりする、これは果たして、悪いことだろうか。