完璧な温たま

空港、お蕎麦屋さん、出発前の手持ち無沙汰な時間。実のところ手持ち無沙汰にしている余裕はそんなになく、締切が刻一刻とにじり寄っているのだけれど気力の弾が底を尽きもう何者とも戦えそうにないのであった。

手荷物検査場からまっすぐ搭乗口に向かう。待合のベンチはまだガラガラに空いており、どこにでも座れる。充電用のコンセントだって何口でも使い放題だ。

ベンチに座る前に、と適当なご飯屋さんに寄った。保安検査場の先にある食事処は、だいたい遠いところに「今食べたい気がするお店」があるので、本来は計画性が求められるアクションなのだと思う、出発直前の食事というものは。

今日も今日とてお米とお肉が食べたい気がしていたところ、付近にあるのはお蕎麦屋さんだけだった。ふっくらご飯と脂を恋しく思いながら、のれんを潜るとかつお出汁の匂いが体を包み込んだ。いい匂い、でも本当に求めるものはそれじゃなかったんだ。

空港価格の高級かけそばに温たまを追加し、セルフカウンターから秒で出てきたトレーを受け取る。小皿に乗った温たまがあんまりにも美しく円かったので、外食産業って本当に産業なんだなぁとしみじみ感動した。決められた器具できちんと時間を測って、適切な手順で作られた完璧な温たま。

完璧な温たまを乗せたかけそばは、当たり前に予想通りの「かけそば」で、完璧な温たまも「温たま」の範疇を越えることはなく、きちんと設計されたメニューを行儀よく食べ席を立った。お席、一回転なり。

混み始めた搭乗口のベンチで、充電コンセントを慎ましく一つだけ使いPCの電源を入れる。出発の時間は迫り、私は締め切りを、そしてメールの返信を乗り越えなくてはならないのだ。

力みも試行錯誤も必要のない、完璧な温たま。大抵の産業は、あんな感じに洗練されていくことができるはず、そんなことを思いながら、定型文をひねってメールの返信を考えた。引き続き、気力の弾は尽きかけている。

時間が育くむもの、風化していくもの

人混みを避け山奥を訪れると、ちょうど紅葉の時期でこちらも大混雑していた。蛇行する山道をひしめく乗用車に混ざり、レンタカーのハンドルを握る。狭所で行き違うために時々サイドミラーを畳みながら、歩行者や車が洗われる芋のようだなあと思った。

山を切り拓き敷かれた道の脇には、とんでもない巨木が多数聳えていた。この山が育つのに、一体どれだけの時間を要したのだろうと思う。時々目に入る蛍光色のリボンや、巨木の横にちょろりと生える頼りない若木を目にするたび、山の世話をしている人が描いているであろう、〇年後の山の姿に考えを巡らせるなどした。

木々の合間を車が走る。走るというにはトロトロしすぎた速度ではある。巨木と人間が並ぶと縮尺がおかしくて、両者は違う時間軸の生き物なのだと改めて感じる。

10月末、「燕三条工場の祭典」に行ってきた。新潟の燕市・三条市にまたがる、金属加工で栄えているエリアで開催される、町工場のオープンファクトリーが目玉のイベントだ。

金物の関連製品を製造している工場で、「昔はこの辺の大きい工場からの発注が多かったけれど、今はみんな海外に(発注が)行ってしまった」という話を聞いた。

一円でも安い生産コストを追求した結果、工場が海外に移った、技術が廃れた、若者は都会へ行き、後継者がいなくなった──という話は、現代にはありふれたエピソードなのだろうと思う。業態をより時代に沿ったものにしていくといった観点では、むしろ普遍的なエピソードだろうとも。

非合理は市場に淘汰され、合理的なものだけが残っていく。それは私たちの暮らし、消費者のニーズに合わせた、現代的で自然なことだ。いっそ健全なサイクルとも言える。

燕三条エリアでの取り組みは個人的にも楽しく拝見・体験しているが、今日の日記の主題ではないため、それについてはまたいつか書きたい。

合理を追い求めるからこそ売り上げが立つ反面、補助金を注ぎ込んでようやく守られる遺物や自然がある。史跡や寺社仏閣は文化・歴史などと呼ばれ、一見「合理的な市場」からは遠い存在のように思える。入山料の発生しない山もまた然り。

非合理を成り立たせるためには、並走する合理からの分け前によって、十分なリソースが確保される必要がある。

かつての幕府は年貢で荘厳な寺社仏閣を建立し、行政は税金で文化遺産を補修して山を整備し、私たちは働いたお給料でおやつを買ったり自宅を建てたりする。(荘厳な寺社仏閣のおかげで、リーダーの求心力が高まったり観光産業が栄えたりすることがあると思うので、一概に非合理とは言えないかもしれない)

寿命に向かい無秩序に朽ちていくのを、食い止め少しでも長らえさせようとする働きかけ、または混沌を整える作業、あるいは純粋な幸福のための行動、そういったふるまいの全てには原資が必要だ。

お金であったりマンパワーであったり、私たちが持ちうる原資──リソースには必ず、上限がある。寝て起きて働き、ご飯を食べる。寝食がなくては働けないし、1日は24時間と決まっている。

昔、栄えた町並み。船団が停泊していた漁港や地場産業が盛んだった地域で、鉄骨が剥き出しになった建物や穴の空いたトタン屋根を目にするたび、「おお、経済との戦いの痕跡……」と思う。

町やお屋敷の規模が大きいほど、過日の生み出すノスタルジーはきつい。時代の流れとともに合理的でなくなった産業が淘汰されていく、自然で残酷な流れを突きつけられたとき、栄えた「かつて」に思いを馳せては切なさに胸を震わせる私がいる。一方Amazonでは、1円でも安い商品を買うわけだけれど。

朽ちていく非合理と、保護される非合理がある。保護できる非合理と、保護できない非合理がある、といえるかもしれない。

合理のもたらすリソースを欠いたとき、非合理は簡単に淘汰される。文化的にも豊かに暮らせるに越したことはないけれど、腹が減っては戦はできないのである。

いつでも合理が正しいわけではない、と信じたい。人間こそ非合理の塊のようなところがあるし、寄り道した先で一生忘れられない経験をすることだって、きっとある。

しかし、誰がどうやって非合理に対するコストを負い続けるかを考え実行に移していくのは、合理の仕事だ。

ゆるふわと心地よい妄想ばかりして過ごせたらいいのだけれど、理想に辿り着くには道筋が必要なのだなあと思う。

美しい山景色。自然だけでも、人の力だけでも生み出せない風景を眺めがら。

10分の1世界

機内誌で、浅田次郎さんのエッセイを読んだ。コロナ禍とは、コールハーンを一足39ドルで買える世界のことだったのかと思う。

しかし、安い。デパートで普通に買うと、10倍以上の価格になるはず。流通過程で乗っかるマージンのえげつなさについて考え、でも上乗せ分でキラキラした接客をしてくれるのだから、それはそれで喜ばしいのか。

飛行機を降りると、呼吸が軽くて驚いた。夏だ。

雨でないのなら、と傘を置いて出かけたら、そういえば私の傘は雨晴兼用だった。空模様は晴天。まっすぐ降りかかる夏の日差しは、肌に痛い。

「つらお…」などと呟いたものの、つらおはビフォーコロナ時代の言葉な気がした。

傘を持ちたくないのは身軽さが恋しいから、でも傘を持つのは保険のためで、保険とは辛い時期をラクにしてくれるものだったな、と思い出す。

半袖の形に、腕は赤く日焼けをした。久しぶりの日焼けな気がする。

赤くなった腕で吊り革を掴む。

電車のサイネージに登場するのは、初めて見る顔ばかり。少しずつ旅を思い出しながら、いま何が流行りなのかを全く知らない、浦島太郎みたいな移動をしている。

私はお前をつれてゆくよ

国境が開き始めている。

飛行機に乗る罪悪感が一気に弱くなった。

長距離を移動することに、罪人のようにビクビクしなくても良いのだ。

予定の合間を縫っては、空の旅を少しずつ再開している。航空券は、ハイシーズンに向けて値上がりの傾向。盛夏は混むし高いけど、6月の飛行機はちょうどいい。

コロナ禍で、ものを手放しすぎたきらいがある。少なさは、身軽さだ。どこへ出かけるにも小さな肩掛けカバン1つで、手というものは塞いではいけないのだと思った。

ここへきて飛行機である。

さすがに3泊4日を、小さなカバンひとつでは過ごせない。しかし、手を塞ぐ荷物は持ちたくない。安心用の折り畳み傘だって、手に握っていたくはないのだ。

愛用していたキャリーバッグを引っ張り出し、掃除をする。放置しすぎたために、持ち手の部分はなんと加水分解でベタベタしていた。その他、良好。思えばこの人といろんな所へ行った。

空っぽのカバンを、コロコロ転がしてみる。2輪のキャスターはスムーズに地面を走る。少しベタついた取っ手を握る、右手。

このカバンがとても優秀なことを、私は知っている。このカバンにたくさんの良いものを詰め込めることだって知っている。

しかし、少し、重い。

正確には、「今の気分には」重い。

悩みに悩んで、キャリーバッグに2泊3日分の荷物を詰めた。手ぶらで行っても、どうせ現地で服を買うのだ。飛行機に乗るたび、間に合わせの服を増やすのも違う気がする。

2泊3日のカバンはスカスカだ。服も、詰めるお土産も、そんなにない。

「ビフォー」と比べたら明らかに軽いけれど、スタスタ歩くにはまだ少し重い。

アフターとぼんやり混ざり始めたウィズの時代、旅もまだ調整中であるわけで、繰り返しによりもっと最適に近い答えが見つかるわけで、きっとそれなりの、落ち着く形の旅が生まれていくのだと思う。

使うものもスケジュールも、行く場所、会う人、全部少しずつ調整しつつ。調整が終わったとき、身軽な両手は何を持っているのでしょうね。

優秀なキャリーバッグ、移動の象徴であったもの。ひとまず今日、私はお前を連れてゆくよ。

スーツケースを磨く、陸マイルを数える

ここ2年ほど、飛行機に乗っていない。すっかり地に足をつけた生活に馴染んでしまった。

飛行機に乗り、知らない土地に行くのが好きだった。馴染みのない天井を見上げ、寝起きの頭で「ここどこだっけ?」と考えたり、初めて入るごはん屋さんで、勘を頼りにメニューを決める時間がとても大切だった。

旅先での予定は、空白。旅ではなく、ただの移動だったのかもしれない。名所もショッピングセンターも回らない、怠惰な移動だ。

駅前の地図で乗り換えを調べ、調べたけど面倒になって結局ホテルに引きこもることもある。ひどい時はファミマのおにぎりを食べるけど、北海道にはセイコーマートがあるから、無駄旅の罪悪感がちょっと薄れる。行って、ダラダラ過ごして、終わり。

移動の思い出は別に誰にも話さないしお土産も買わず、飛行機を降りたらヌルッといつもの生活に戻る。あっという間に戻ってこれる生活がちゃんとある、旅先で孤独を感じても、本当のところ一人ではないと知っていたから、知らない場所でわざわざ一人になる時間が好きだったんでしょうな。

生活が変わり、旅行に行く代わりに、ネットを見ない時間がわざわざ作っていた。要するに、私は周りの人達の「いま何してる?」を摂取しない時間を必要としていたらしい。繋がりをいっときオフにするための移動、移動というか逃避に似ている。

去年と今年、スマホを機内モードにするだけの、とてもリーズナブルな移動をたくさんした。体はどこにも行っていないので、気持ち的には移動、というだけの話だけど。空を飛べないぶん陸でお買い物をし、クレジットカードにマイルが貯まっていく。

ほこりを被ったスーツケースを拭きながら、落ち着いたらまた飛行機に乗りたいと思う。逃避先というか休憩場所を探している、いつも。やっぱりお土産は買わないだろうし、服を着替えてお出かけすることもそんなにないだろうし、今度は、もっと小さなかばんでも大丈夫かもしれない。