MOFTをはがす。「ありがとう」と伝える

PCの画像

新しいPCを買った。

下取りに出すために、古いPCのリストアをした。

5年近くかけて蓄えたデータは5分もしないうちに消えてなくなり、メモリの空きをしめす棒グラフが、一気に真っ白になった。デジタルデータってそういうとこあるよねって思う。

転職したての頃からずっと使っているPCだった。一緒に働いて、ぶじ暮らしていくだけの稼ぎを生んでくれたPC。せめて、アナログな精神でセンチメンタルを感じておく。

しかし、お別れのあとも生活はつづく。私にはやることがあるのだった。

そう、PCの下取り額を上げねばならない。デジタル部分はこれ以上触りようがなく、残すは見た目が9割なので、できるだけきれいにして然るべき場所に送付するのだ。

マイクロファイバーぞうきんで、箱体をふく。エアダスターをキーボードに吹き付け、すきまのほこりを綿棒でぬぐう。ひと拭きするたびにPCはきれいに他人のようになっていき、アナログはアナログでこういうとこあるよねって思う。

ノートPCの裏側には、体に優しい便利グッズが貼ってあった。名前を「MOFT」という。PC仕事で首を痛めた私に、友人が贈ってくれたものだ。

座りっぱなしで1日じゅう顔をやや下に向けて過ごす生活を続けていたら、首周りの筋肉がガチガチになってしまい、ある日とつぜん首が回らなくなった。うなずけず振り向けず、後方確認ができないので車にも乗れない。大変だった。

そんな時期、MOFTにだいぶ助けられた。振り返ると、なんと体を粗末にしていたのか!と思う。その後、意識を高くしてストレッチポールなどを揃えたのはまた別の話。

PCを下取りに出すには、MOFTを剥がなくてはいけなかった。

ネットでは「再利用できます」という記事をちらほら見かけたけれども、そっと剥がそうとしたら爪が折れたので、力技で引き剥がすことにした。

ラジオペンチで、ぐいっと。

これが文明の力よ。

PCを買い替えて、ついでに周辺機器も新しくして、だいぶものを買ったり譲ったり、捨てたりした。じゅうぶん活用できなくてごめんねと思うものも、たくさん使ったけど他の人にも大事にしてもらってな!ありがとうな!と思うものもあった。

サステナビリティという言葉があるけれど、例えば「10年使っていられたもの」ってそう多くない。一生着られるニットは毛玉がガチガチになって捨ててしまったし、格好いいハイヒールは、田舎で暮らすにはちょっとかかとが高すぎた。しまっていたらカビが生えてしまった。

憧れて買ったスーツケースはここ2年ほこりを被っており、掃除機は先月壊れ、机の上のPCを見ては「お前ともお別れか」と思う。

新陳代謝だなあと思う。物を買って、使っては捨てていく。

まいにち顔を洗うように眠るように、消耗し回復して、壊れたらまた直し生活はつづく。買うときは高揚するし、壊れたら泣くし捨てるときは心が少し痛む。

このくり返しが生きていくってことなんだろうけれども、できるだけ納得いく物を、丁寧に長く使っていってあげたいね。

大変お世話になりました、ありがとうMacBook。

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MOFTはどうしようか。我が家にはもうノートPCがないし、しばらく旅にも出ないからノートPCを新調する予定もないし、とりあえず保留だなあ。

相談をする、君と暮らしていきたいと思う

長く使える物と暮らしたいと、ずっと思っている。

長持ちするものは必ずしも高級品じゃなく、小学校で家庭科の授業のために買った布用の裁ちばさみがまだ現役だったりするし、父が作った実家の棚は、ネジ穴を増やしつつもう25年くらい使われている。

長く使えるものって、極論をいえば「取り替えられるもの」なんだと思う。メンテナンスできる人が存在するもの。切れ味が落ちたら刃を研いで、棚板の高さが合わなくなったら位置を変えてあげる。

パーツを用意してアンティークの時計を修理するような、カメラや楽器のメンテナンスみたいな。不具合が起きても、全体のうち一部を替えてあげれば使えるようになりますよ、という。

ラーメンの秘伝のスープみたいだと思う。これがあるから替え玉をしても美味しい、もちろんスープだけでは成り立たなくて、替え玉と合わせることでラーメンになるんだけど。

取り替えの効かない単体なら、買う→使い終わるの前後に、納得感があるといいなと思う。

ページがいっぱいになれば新しいKOKUYOのノートを買うし、春がきたら新しいユニクロの服を買う。そういった前後に、何かしら、一方的な自然からの搾取ではありませんよという証明があるとすごく救われる。トレーサビリティというやつか。

メンテナンスできるもの、替えがきくもの、もっといえば誕生から終わりまで、ちゃんと面倒を見てあげられるもの。要するにたぶんMieleなんだけど、20年分のお買い物はちょっと重いな。

使い捨ての一方的な感じ、利便性と引き換えに、捨てて良いモノの価値をすごく低く見積もった感じがあまり好きではない。利便性の価値が私にとってはあまり高くないというだけなので、どこかで引き算ができないかと考える。

利便性を我慢できる範囲で削り、本来使い捨てられるはずだった物の使用回数をちょっとだけ増やす。う〜ん、なら初めからちゃんと使えるものを選べば良くないか? 一人で考えてもしっくり来る答えが見つからなかったので、職人さんに相談に行く。

職人さんはモノの価値を高めるポジションにいるので、相談した結果としてはより迷子になった。前述のとおり高価なものが全てではないし、Mieleでは重すぎるし、ちょうどいい塩梅って難しいんだなと思った。

大事にできるものを探す、そして君と暮らしていきたいと思う。ロマンチックだけど難しいことだ。

スーツケースを磨く、陸マイルを数える

ここ2年ほど、飛行機に乗っていない。すっかり地に足をつけた生活に馴染んでしまった。

飛行機に乗り、知らない土地に行くのが好きだった。馴染みのない天井を見上げ、寝起きの頭で「ここどこだっけ?」と考えたり、初めて入るごはん屋さんで、勘を頼りにメニューを決める時間がとても大切だった。

旅先での予定は、空白。旅ではなく、ただの移動だったのかもしれない。名所もショッピングセンターも回らない、怠惰な移動だ。

駅前の地図で乗り換えを調べ、調べたけど面倒になって結局ホテルに引きこもることもある。ひどい時はファミマのおにぎりを食べるけど、北海道にはセイコーマートがあるから、無駄旅の罪悪感がちょっと薄れる。行って、ダラダラ過ごして、終わり。

移動の思い出は別に誰にも話さないしお土産も買わず、飛行機を降りたらヌルッといつもの生活に戻る。あっという間に戻ってこれる生活がちゃんとある、旅先で孤独を感じても、本当のところ一人ではないと知っていたから、知らない場所でわざわざ一人になる時間が好きだったんでしょうな。

生活が変わり、旅行に行く代わりに、ネットを見ない時間がわざわざ作っていた。要するに、私は周りの人達の「いま何してる?」を摂取しない時間を必要としていたらしい。繋がりをいっときオフにするための移動、移動というか逃避に似ている。

去年と今年、スマホを機内モードにするだけの、とてもリーズナブルな移動をたくさんした。体はどこにも行っていないので、気持ち的には移動、というだけの話だけど。空を飛べないぶん陸でお買い物をし、クレジットカードにマイルが貯まっていく。

ほこりを被ったスーツケースを拭きながら、落ち着いたらまた飛行機に乗りたいと思う。逃避先というか休憩場所を探している、いつも。やっぱりお土産は買わないだろうし、服を着替えてお出かけすることもそんなにないだろうし、今度は、もっと小さなかばんでも大丈夫かもしれない。